「大鉄のDNA」近鉄 6411系 珍車ギャラリー#408

「大鉄のDNA」近鉄 6411系 珍車ギャラリー#408

独自のアイデンティティをもつ南大阪線

近鉄は車両のフォルムにおいて(世代ごとではありますが)一体感が感じられます。
また部品の一つ一つに至るまで規格統一がすすめられメンテナンスにおける合理化も図られています。
よって見た目 路線ごとに違いを感じることはそうそうありません。(例外:東大阪線)
しかし南大阪線は外見ではうかがい知れない独自のアイデンティティをもつ路線です。

例えば吉野へ向かう特急は大阪寄が①号車です。
しかし名古屋や奈良へ向かう特急は逆で先頭車が①号車です。
車両にも独自のこだわりがあります。なんといっても線路の幅が違います。
前述の吉野特急ですが阿部野橋からなら乗り換えなしです。
でも京都からということになると橿原神宮前で乗り換えなければなりません。
線路の幅が違うため車両が直通運転できないのです。
理由はその成り立ちが違うからです。
近畿日本鉄道のルーツを訊ねてみると、路線ごとに多くの鉄道会社によって設立されています。
それらは時を経て、名を変え、合併を繰り返してきました。
そのあげく戦時統合によって設立した当時の近鉄はまさに寄り合い所帯だったと申せましょう。
近鉄の歴史を路線ごとにまとめました。参考になさってください。
大阪線まとめ
奈良線まとめ
名古屋線まとめ
南大阪線まとめ

私事ですが 祖母の実家は6411系が最後の活躍をした道明寺線沿線にありました。
祖母の兄上は橿原神宮前駅の駅長までされたお方で、またご親族の多くが鉄道マンでした。
私が乗ってきた6600形の話を持ちかけると話は盛り上がり「大鉄」という言葉がひっきりなしに出てきたのを覚えています。
(「大鉄」は南大阪線のルーツたる大阪鉄道のことです。)
昭和40年代の話ですからどのような話だったか 詳しいことは覚えていませんが、ここで大鉄の代名詞ともいえる6600形について振り返ってみようと思います。
(南大阪線にはインバータ制御車となる6600系が在籍していますので、6600形と区別します。)

6600形登場の背景

6600形はもと大阪鉄道デニ500形です。
1928~30年に田中車輛と川崎車輌で製造されました。
当時としては強力なウェスチングハウス社製電動機WH-586-JP-5を4基搭載した20m級電車です
(なおデニ500形には荷物室は設置されていません。「デ」は「電動車」の「デ」ですが、「ニ」は大鉄で4番目の電車形式の意で、いろは順4番目の文字「に」をとったものです。)
その一族をまとめると 電動車:デニ501が35両、制御車:フイ601が15両 荷物室付きの電動車:デホニ551が7両、郵便室付きの電動車:デホユ561が3両 と総数は60両となります。

1923年に 阿部野橋までの路線を完成させた大鉄は1929年に吉野鉄道と直通運転をするため久米寺(橿原神宮前)まで延伸しました。
デニ500形はこの直通列車用として大量に投入されたのです。
阿部野橋-吉野間68.5kmを2時間弱で結びました。(後の急行運転では1時間39分へと短縮)
広々とした固定クロスシートと相まって当時の人々の心をわしづかみしたに違いありません。
大鉄はこれを機に吉野鉄道を傘下に収めるつもりだったのでしょうか。

それはさておき直通運転一ヶ月後の1929年4月。大鉄にとって痛恨の大事故が発生します。
「大鉄電車3重衝突事故」です。
上ノ太子-二上山間は南大阪線屈指の急勾配区間です。
ここで故障し停車した列車をこともあろうか切り離してしまい暴走。
上ノ太子駅に停車していた列車に激突、そのまた後続列車まで巻き込んでしまうという大惨事でした。
この事件がどれほどの影響を与えたかはわかりませんが、ほどなく吉野鉄道は大鉄ではなく大軌と合併してしまいました。
加えて、1929年といえば世界恐慌です。
日本にも影響が及び深刻な不景気となってしまいました。乗客も激減したことでしょう。
一気に路線延長した大鉄は過剰な設備投資となりデニ500形の大量増備とともに大鉄の経営を圧迫しました。

しかしそれはデニ500形が失敗作だったからというわけではありません。
デニ500形は私鉄電車の車両として初の20m級大型車です。
先行してデビューした19m車である新京阪のP-6(デイ100)のいかついフォルムは見るからに丈夫そうです。
デニ500形はそれ以上の車体強度を意識して作られたに違いありません。
魚腹形に補強された重い台枠上に組み込まれた車体には大きな幕板に小さな2段窓がずらりと並びます。(ここでデニ500形の画像をご覧に入れられないのが残念です。)
武骨ともいわれたそのデザインはスマートとは言いがたいのですが、その必要性から生まれたものです。
以後、20m級の大型車体はその後、南海鉄道301系(1929年)参宮急行電鉄2200系(1930年)などに引き継がれてゆきます。
また国鉄(鉄道省)においても横須賀線用32系(1931年)などにも採用され、電車の標準サイズとなってゆくのです。
デニ500形はまさに鉄道車両史の金字塔といえる存在です。
しかし以後、大鉄は新造の電車を世に送り出すことはありませんでした。
1943年に大鉄は関西急行鉄道と合併され消滅。
デニ501形はモ6601形、フイ601形はク6671形、デホニ551形はモニ6651形、デホユ661形はモユ6661形へと変更されました。

6411系の登場

6411系 12F① モ6411形 6412 撮影場所:柏原

南大阪線の電車新造は、デニ500形(6600形)一族が大量増備されて以後、20年近く途絶えていました。
とはいえ戦後、車両需給の逼迫は南大阪線でも例外ではありません。
久々の新車として1949年にモ6801形(01~04)ク6701形(01・02)が登場しました。
1957年に6800系(ラビットカー)が登場したことにより、モ6801形はモ6411形に ク6701形はク6521形に改番されました。
混乱を避けるため以下
6411系と呼びます。
6411系の主電動機はMB-292-AF:150kW、主制御器は電動カム軸制御器(MMC-H200EZ)です。
台車が古風なボールドウィンタイプのイコライザー式ですから、古くさく感じますが、制御器は新しいタイプです。
そしてその車体サイズです。20.9mという車体長は諸元表を見る限り近鉄最大です。
思えば当時、名古屋線は南大阪線と同じ狭軌だったのですから6411形などを新たに作らなくても伊勢電タイプの6331形をそのままこちらにも導入すればいいのです。
16000系導入以前の優等列車「かもしか号」には5820形(S5年製もと伊勢電デハ231形)を転入させ運行させています。
どういうわけで20.9mという大きなものをわざわざ造ったのでしょう。
はっきりいってその必要はないように思います。
きっと日本初の20m級大型車6600形を造ったときの熱い思いが蘇ってきたのです。

大鉄のDNA

私には日本初の20m級大型車をつくってみせた大鉄のDNAを引き継いでいるように思われてなりません。
6411形の特徴といえば、その顔です。
貫通路の窓が2段になっています。機能的には何の意味も感じられません。
でも大鉄のヌシともいうべき6600形がそうです。
かつて養老線の写真を撮りに行ったとき5810形更新車に出合いました。
貫通路の窓がこのタイプです。調べたら大鉄由来の更新車でした。
やはり大鉄の顔だったのです。

養老線 モ5800形 5810 撮影場所:大垣
大阪鉄道(南大阪線)デイ1形(T12)→関急モ5601形。S30鋼体化モ5800形に S46年養老線に入線。

近畿日本鉄道に統合された後もしばらくは従来の鉄道会社の伝統が引き継がれていました。
車両においてもそうで、戦後 1948年に投入された6331形などは伊勢電のイメージを色濃く残す面長なフォルムです。
関急2200形のイメージを引き継いだ1950年製の2250形とは見た目も大きく違います。
そして、今回ご紹介する6411系も近鉄になってから登場した南大阪線車両です。
彼女もまた南大阪線のルーツたる大阪鉄道(大鉄)の面影を強く残していると私は思うのです。

珍車ギャラリーカテゴリの最新記事