「仲間たちへのレクイエム」 JR九州 50系客車1000番台 冷房改造車 珍車ギャラリー#382

「仲間たちへのレクイエム」 JR九州 50系客車1000番台 冷房改造車 珍車ギャラリー#382

50系客車は普通列車に供される一般型客車です。
1977~82年に 新潟鉄工所・富士重工業 で953両製造されました。(オハ51、マニ50などを含む)
オハ50/オハフ50形(335/488両)は 北海道を除く全国に配属されました。
旧型客車と混結することもあって最高時速は95km/h。台車は旧式のコイルばね(TR230)です。
従来の旧型客車と同様、客室とデッキとの間に仕切り扉がある2扉車です。
仕切り扉の幅を1,000mmと拡げ両端をロングシートとしてはいますがで冷房はありません。
暖房はというと機関車に搭載される蒸気発生装置 (SG) から蒸気の供給を受ける方式。
(一部、機関車から電気の供給を受ける電気暖房装置を併設する2000番台もあり)
つまり旧形客車と同じです。
そして、なんとトイレまで旧型客車と同じく垂れ流し。
通勤通学時間帯に使うのにもかかわらず朝の貴重な時間を少しでも早く快適に…
というお客様の声を見事に裏切った新車でした。

JR九州 オハフ50-259 撮影:鳥栖

1977~82年といえばロングシートの通勤形車両でも冷房は当たり前。
いったいなぜ このような時代錯誤の車両が造られたのでしょうか。

1950年代後半から60年代にかけて動力の分散化(客車→気動車/電車化)が謳われ座席客車は長く増備されることはありませんでした。
それでも、急行用に12系(1968年~)特急用に14系(1972年~)が増備されました。
対して普通列車用はというと1959年以降全くなく気動車や電車に移行していました。
といいたいところですが、12系などによって淘汰された旧型客車(43系など)が各地で普通列車に使われていました。
急行にも使われていたものですからデッキ付きの2扉車です。通勤時には全く適していません。
自動ドアでもありませんから開け放たれた扉に鈴なりの乗客がしがみついていた光景が思い出されます。
さすがに国鉄もこれは何とかしなけりゃあイカンと思ったのでしょう。
18年ぶりに普通列車用座席客車を投入します。これが50系です。
でもなぜ 気動車や電車を導入しなかったのでしょう。

当時の国鉄が真っ先に考えなければならなかったこと。それは経済性でした。
動力装置が不要の客車は製造コストが気動車や電車よりも格段に安い。
通勤通学時間帯運転されていた長編成の客車普通列車の置換えには貨物輸送量の減少で余剰となっていた機関車を有効利用すれば低コストで輸送力増強やサービス改善ができると考えたのです。
そのとおりですね。加えて気動車や電車による動力近代化計画には労働組合が反対していました。
客車はその大半が客車区、客貨車区の配置となっていました。
50系客車が配置されなければ、統廃合が進められたでしょう。
職場を守ろうとする組合の要望も納得できます。

組合の要望はオハフ50形にも反映されていました。
自動ドアの開閉操作を行うため車掌室に加えもう一端にも業務用室を設置したことです。
緩急車(オハフ)の数も従来よりも増やし業務の効率化を図ったわけです。

でも名鉄では乗務員室に戻らずともドアの開閉ができるよう客室内に戸閉装置を設置しています。
これをオハにも取り付ければ乗務員室なんて二つも要らないしオハフを増やす必要もありません。
その分客室にすればもっと乗客は楽になるし車掌さんもこのほうが移動距離が減るわけです。
乗客目線で考えたら50系などではなく12系の近郊形。
つまりキハ47 できればキハ66の車体をもつトイレ付き両開き2ドア冷房客車を投入し乗客離れをくい止めるのが最善の策ではなかったかと私は思います。
いくら職場が確保されても50系が有効利用されなければ いずれ自分の首を絞めることになるのです。

参考文献によりますと、国鉄当局は客車列車が気動車、電車に優位に立てるのは6連以上。
という見通しのもと計画を立てています。
しかしその後の運行実体はというと6連に満たない列車が多く存在し、
F級の電気機関車が2両の50系を牽引するという笑えない実態もみられました。

 

EF71形+50系客車2連  撮影場所:米沢

結局、車両基地からあふれ出し駅の側線などで身をもてあまし朽ちていった大量の50系…。
そんな姿を思い出すにつけて私は戦うべき敵を見失い海軍と陸軍とが机上の空論をしていた
かつての大本営をつい連想してしまうのです。
もっと現場のことを考えていたら傷口をここまで拡げることはなかった と。

民営化以降  JR 各社はその負の遺産に苦慮しています。

JR四国ではラッシュ時対策として1988年に50系のデッキと客室の仕切りを撤去ロングシートを拡げました。
しかし焼け石に水だったのでしょうか。客車列車は改造の二年後、90年11月に廃止されます。
JR四国のみならず非冷房車だった50系の多くは8~12年という短い生涯を終えることになります。

JR九州には50系が90両継承されJR九州でもその数を減らしつつありました。
ですがJR九州には50系に一番必要なものが何かわかっていました。
冷房です。1991年にやっとこさ冷房改造車が登場します。
それが今回の珍車。50系1000番台です。(車番は原番号+1000)

JR九州 オハフ50-1288 冷房改造車 撮影:鳥栖

電源は床下搭載のディーゼル発電機から供給、また同時に暖房もここからの給電による電気暖房に改造されSGを装備しない機関車牽引時でも暖房が使用できるようになりました。
しかしわかっていたのなら、どうしてもっと早く手を打たなかったのでしょう。
実は1000番台の冷房装置は783系電車のAU400Kを流用していました。
30000kcalのAU400Kではパワー不足とわかり38000kcalのAU402K への換装が進んでいたのです。
これを再活用することで成り立った冷房改造車でした。
海峡号としてJR北海道で再起することになった冷房改造車5000番台とは違います。
電源も自前で準備しなければならないのが1000番台です。
発電用エンジンには マツダ゙製トラック「タイタン」と共通のHA30形を採用しました。
ラッシュ時には活躍するものの昼寝していることが多かった50系に多大な投資はできなかったのです。

結局、改造されたのはオハ50が6両、オハフ50が13両でした。
筑豊本線・鹿児島本線・久大本線で運用されましたが思うような効果が得られなかったということでしょう。
AU400Kには余裕があったものの JR九州はそれ以上1000番台を増備することはありませんでした。
それでも垂れ流しトイレを何とかすべく2000年夏以降はオハフ50のトイレを使用禁止とし循環式トイレを設置したスハフ12を最後尾に1両増結するということまでしました。
JR九州は乗客のために、ひいては50系のために手を尽くしてくれたと思います。

翌2001年10月、福北ゆたか線の電化開業に合わせ最後まで残った50系客車列車(門司港、若松-飯塚)はJR九州から姿を消すことになりました。
飯塚-博多間の「赤い快速」キハ200系に比べれば地味ではありますが、
50系1000番台はキハ66系とともに、しっかりとそのバトンを813系817系電車に引き継ぐ使命を果たしたといえるのではないでしょうか。

900両を越える仲間たちが無念な思いを抱いて姿を消しました。
5000番台もそうですが、1000番台もまたそんな仲間たちのことを思いながら最後の仕業に就いた…。
私には そんな気がしてならないのです。

参考文献:鉄道ピクトリアル
2007年2月号 #785,「特集 50系客車」
1992年10月号 #566,「新車年鑑」1992年版 P82

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