「門鉄デフ付きD51」JR東日本 D51形蒸気機関車 珍車ギャラリー#304

「門鉄デフ付きD51」JR東日本 D51形蒸気機関車 珍車ギャラリー#304

D51形蒸気機関車は1936年(昭和11年)から太平洋戦争中にかけて大量生産されました。
その総数は1,115両を数えます。
この数字は日本の機関車1形式の両数としてはディーゼル機関車や電気機関車などを含めても最大となるもので、
日本全国、津々浦々で活躍したD51形は「デゴイチ」の愛称とともに、日本の蒸気機関車の代名詞的存在です。

今回取り上げる498号機は そんなD51形のなかでも標準的な車両です。
おおよそ珍車として取り上げるには不適当だと思われる向きがあるかもしれません。
しかし、D51形は金太郎飴ではありません。よく見てゆくと1台1台に個性があります。
その個性についてお話しする前に まずD51形について かくも大量に量産された理由から述べてゆきたいと思います。

設計の基本となったのは同じ軸配置(1D1=ミカド)のテンダー式機関車であるD50形です。
しかし、D50形は大型で入線できる路線が限られていました。
そこでD51形に求められたのは、まず軽量化ということになります。
リベットで接合していたものを電気溶接で置き換え、軸重を軽減しました。
スポーク式ではなくボックス式の動輪を採用したことも軽量化に貢献しました。
これらの工夫で最大動軸重は14.3 tに引き下げられ、これによりD50形では入線が困難だった丙線への入線が可能となったのです。
また全長をD50形より571 mm短縮したことで、亜幹線クラス以下の路線に多数存在した60フィート転車台での転向を可能としました。
このことから全国に配備することが可能となったのです。

一方で、ボイラー使用圧力は当初D50形の13 kg/cm2に対して14 kg/cm2と1 kg/cm2昇圧、牽引力をUPしています。
折しも、国内情勢は戦時体制へ突入、
貨物機であるD51形に対する需要は非常に大きく量産に拍車がかかったのはなったのは当然の流れでした。

国内の車両メーカー5社と鉄道省の工場(のうち8工場)が製造に参加しました。
D51 498号機は、昭和15年(1940)11月に鉄道省鷹取工場で製造されました。(製造番号No26)
日本国有鉄道じゃあないですよ。鉄道省です。
戦後世代である我々が知っている国鉄とは日本国有鉄道法に基づき戦後(1949年6月)に発足した独立採算制の公共事業体で 戦前、政府官庁によって経営されていた国有鉄道事業を引き継いだものです。
日本の鉄道は1872年の新橋 – 横浜間~始まるわけですが、そのときの所轄官庁は工部省鉄道寮というものでした。
その後はというと改組に次ぐ改組で混乱を極めました。
国鉄の基礎ができあがってゆくのは、なんといっても鉄道の国有化です。
これをきっかけに政府は1908年鉄道院を新設し内閣の直属機関としました。
初代総裁は後藤新平。
鉄道省は、1920年にこの内閣鉄道院を昇格させたものです。
このことによりその独立性を高めました。
鉄道省鉄道局は鉄道院鉄道管理局を継承、
札幌・仙台・東京・名古屋・神戸(1928年5月、大阪鉄道局に改称し大阪に移転)・門司の6局体制でスタートしました。
1943年11月に戦時体制に伴う統廃合の一環として逓信省と合併し運輸通信省に改組されるまで国電は省線電車とも呼ばれ国民に親しまれてきました。

そう、D51 498号機は戦前の国鉄の有り様を伝えてくれる証人でもあるのです。

ちなみに鉄道省の工場で製造されたD51形は228両、D51形全体から見るとその2割ほどになります。
梅小路に保存されているD51形200号機も鉄道省浜松工場で製造されたものです。

今回、私がこの498号機にこだわっているのは、生まれだけではありません。その後の変化です。
200号機が、オリジナルに近い形で保存されているのに対して、
498号機はその後の装備をも含めて動態保存されているのです。

D51形が個性的に変身してゆくのは、戦後のことです。
日本全国に活躍の場を拡げたD51形でしたが、
中央西線や伯備線といった山岳路線はD51形の独壇場であったと言っていいでしょう。
しかしこれらの山岳路線はきつい勾配を伴った長大トンネルも多く、
D51形にとっても乗務員にとってもきわめて過酷な環境の連続でもあったのです。
時には60℃を超える運転台で投炭を続ける乗務員に容赦なく襲いかかる煤煙。
実際に煙による窒息事故も多発していたそうです。

その対策として多くのD51形に取り付けられたのが、集煙装置や重油併燃装置です。

集煙装置は機関車の煙突付近に設けられた箱状の装置です。
通常は解放されているこの天窓をトンネル内では閉め切り、
煙突からの排気をトンネル上壁に当てず装置の後部にある排気口から排出するものです。
これによって煤煙を機関車の運転台上部から後方に誘導するわけです。
ですからトンネル内では天窓のシャッターを叩く煙突からの排気が大太鼓のように鳴り響いていたそうです。

重油併燃装置は蒸気機関車の主燃料である石炭のほか重油を使用するというものです。
起源は明治時代に遡りますが 実用化されたのは戦後復興に伴い石炭不足に見まわれた1951年のことです。
経済的効果もさることながら乗務員の労働環境が改善されることが高く評価され特に山岳路線では標準装備となってゆきます。
火室の焚き口上部にバーナーが設けられました。
重油タンクの装備位置は、ボイラー上のドームの後ろ側に680リットルのカマボコ形タンクを装備する場合が多かったのですが、
それでは足らず炭水車(テンダー)に1500リットルもしくは3000リットルの直方体タンクを装備したケースもありました。

その他、自動給炭装置(メカニカル・ストーカー)誘導通風装置(ギースル・エジェクタ)を追加搭載したものも存在しました。

D51形は与えられた持ち場での使命を果たすため様々な変化を遂げてきた蒸気機関車なのです。

お話をD51 498号機に戻しましょう。彼は昭和15年(1940)に製造されました。
岡山機関区に新製配置され、吹田、平、長岡、新津、坂町と各地で活躍しました。
そして1972年の羽越本線の電化により他の僚機とともにその役目を終えました。
折しも1972年は鉄道100周年の記念すべきメモリアルイヤーです。
その年、八高線において、SLの復活運転行うこととなり、この498号機に白羽の矢があたったのです。
最後の大仕事を担うに当たって高崎第一機関区では周到な準備がなされたと思われます。
大役を果たした498号機はそのまま廃車され上越線後閑駅前で静態保存されることになりました。

国鉄民営化の1987年JR東日本でも蒸気機関車を復活させることになりました。
動態復活を担当することになったのは高崎第一機関区です。
廃車され保存されていた498号機がその復活車両となったのには運命的なものが感じられます。

さて、その翌年となる1988年11月に498号機は見事な動態復活を遂げます。
当時来日した「オリエントエクスプレス’88」の国内最終の列車(上野から大宮まで)をEF58 61号機とともに重連で牽引したのです。
なおこの時、498号機にも重油併燃装置が取り付けられました。
(タンクはテンダーの中に作り込まれているのでそれとはわかりづらいのです。)
その後は、主に上越線の「SL奥利根号」(現在は「SLみなかみ」と称しています)をメインに様々なイベント列車の牽引に起用されています。

そして2010年4月には集煙装置を装備するとともに大型デフレクタを取り付けた いわゆる「重装備仕様」となりました。
「SLやまなし号」として甲府-小淵沢間で運転するためです。
急勾配かつ長大トンネルが存在する区間を通過するために取り付けました。

デフレクタは除煙板とも呼ばれます。
ボイラーの先端部、煙突の左右両側に設置されるボード状のもので、走行時、車両前方からの空気の流れを上向きに導くことで、煙突から排出される煤煙を上へ流し運転室からの前方視界を改善する効果を狙ったものです。
D51形に限らず昭和期に登場した蒸気機関車にはたいていついています。
ただD51 498号機に取り付けられたものは門鉄デフと呼ばれる独特の形状を持つものなのです。

私はここにもこだわりを感じます。

さて、門鉄とは門司鉄道管理局のことです。
1945年以降、同管内の小倉工場ではデフレクタの上半分を残して切り取り車体に取り付けたものを登場させました。
このことからこれら切り取り式除煙板のことを門司鉄道管理局式デフレクタ、略して門鉄デフ、門デフと呼ぶようになったのです。
もっとも門鉄局が命名したものではないのですが、同管内で多く見られたのでこう呼ばれるようになりました。

その後、長野工場、鹿児島工場、後藤工場でもこれら切り取り式除煙板が取り付けられました。
498号機に取り付けられたのは後藤工場モデルです。

参考文献となる『門鉄デフ物語-切取式除煙板調査報告-』で関氏がG-3タイプと分類された門鉄デフです。
ちなみにこのG-3タイプは498号機ではなく499号機と727号機に取り付けられていました。
ではなぜ、498号機に取り付けたのでしょう。
答えは明快です。とにかく格好がいいのです。
個人的な感想ですが門鉄デフがよく似合うのはC57形だと思っています。
しかし、大型の門鉄デフであるこのG-3タイプだけは別です。
画像をご覧ください。
D51形くらいの太めのボイラーにベストマッチしていると思いませんか?
1115両を数えるD51形のなかで、一番かっこいいのはG-3タイプを取り付けた重装備のD51形だ。
498号機の復活運転にかかるスタッフにはそう考えていたD51形マニアがいたに違いありません。

動態保存されている蒸気機関車は単なる人寄せの観光資源ではありません。
歴史的な産業遺産として価値あるものです。
また人々の郷愁を誘う装置として高く評価されるべきものでもあります。

ですが、それだけではありません。498号機はマニアにとってたまらなくかっこいいD51形です。

なぜなら、498号機はD51という形式の多様性を、いやその個性を伝えてくれる希有な存在だからです。

1115両。その1台、1台が個性的なD51形。
彼らこそが、戦後の日本を力強く支え続けてくれたのです。

D51形に乾杯!

参考文献:関 崇博 『門鉄デフ物語-切取式除煙板調査報告-』 ネコ・パブリッシング、2009年
国鉄時代 10巻 「D51と装備」 ネコ・パブリッシング、2007年8月
: 鉄道ファン 421号 1996.5 「特集 機関車D51」の各記事

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