「影が薄いその理由」JR東日本 489系200番台 (珍車ギャラリー#214) 

「影が薄いその理由」JR東日本 489系200番台 (珍車ギャラリー#214) 

碓氷峠と489系

JR西日本 489系白山色05F① クハ489-505 特急白山

撮影場所:上田

1997年  長野新幹線の開業により信越本線の横川 – 軽井沢間が廃止されました。
時刻表の地図をみると 信越本線の横川 – 軽井沢間は途切れてしまっていて空白になっています。
長野新幹線ができるまではちゃんと在来線が通っていました。
ここには碓氷峠というそのままでは越すに越せない難所中の難所があったのです。
この峠の麓となる横川駅の標高は386.6m。対して軽井沢駅は939.1m。
(矢ヶ崎にあるピークは941.9m)
550mあまりの標高差をがあるこの区間を11.2kmほどの距離で一気に駆け上がるという難所です。
そのために国鉄最大となる66.7‰の急勾配区間がその大半を占める他に例のない区間が誕生しました。
かつてはこの難所を越えるのにアプト式という方法で坂を上っていました。
機関車に設置した歯車とレールの間に設置したラックレールを噛み合わせて坂をよじ登るというというシステムです。
当然速度は遅くなり(SL時代の所要時間は75分)大量輸送にも適してはいません。
この区間は明治44年にいち早く電化されたとはいえ所要時間は43分~47分。
時速でいうと18km/hで運転されていました。
(ただし集電装置は第三軌条、つまり地下鉄銀座線と同じ)
戦後、気動車を電気機関車が牽引するという異種混結もこの碓氷峠で始まっています。
1961年にデビューした急行「志賀」です。キハ58形といきたいところですがそうはいきません。
ラックレールに支障をきたさないよう床下機器を見直し ディスクブレーキに空気バネ台車と最新の装備を備えたキハ57形が新製されました。
もちろんED42形電気機関車のパワーでもってこの区間を越えていくわけです。
とはいえ新たに機関車を付け替えなくていい分スピードUP。
上野-長野間で初めて4時間30分をきる快挙を成し遂げました。

国鉄 EF63形電気機関車 EF63-4

撮影場所:軽井沢

国鉄では1963年よりEF63形電気機関車でもって台枠・連結器などを強化した横軽対策車を押し上げることにしました。
EF63形の目標は 「3重連で電車12両を押し上げ かつ安全に坂を降りる」ことです。
しかし非常ブレーキ時  連結器等に過大な力がかかることがわかりました。
結果、保安上8両までに制限されてしまいました。

その後、信越本線の輸送量は増大し1966年には同区間は複線化されます。
しかし最大66.7‰の急勾配区間はあなどれません。
何らかの理由で停車してしまった列車はどうあがこうが坂を登れません。
つまり平坦なところまで後退して再起動するしかなかったのです。
そのため複線化されてはいても「1閉塞区間に1列車しか入線できない」特別なルールが存在しました。
複線なのに熊ノ平信号所(渡り線がある)が設置されていたのはそういうわけです。
ですから さらなる輸送量の増加に対応するには編成増しかないということになりました。
そこで電車と協調運転することで8両の壁を乗り越えることにしたのです。
試験用に製造された165系(12連6M6T:のちの169系900番台)に定員の200%の死重を積み込み、降雨時を想定した散水装置まで準備するという徹底したテストを行いました。
その結果1968年、協調運転用急行用電車として169系がまず量産されました。
そして3年後の1971年。上野 – 金沢間の特急「白山」用として協調運転関連の装置を装備した特急電車を製造することになったのです。それが489系です。
基本設計は485系と共通ですが EF63形と連結される上り方のクハ489形には連結器カバーが省略され、協調制御用KE70形ジャンパ連結器が設置されました。(500番台のみブレーキホースも設置)
EF63形からの協調運転用引き通し線は北側に設置されました。
これにより489系は 片渡りで方向転換ができない構造となり クハ(Tc)は上り方と下り方で番台区分を変えています。
また協調運転用引き通し線を追加した中間車についてもすべて489系となりました。
(なお485系と混結することは可能です。当然協調機能は失われますが)
つまり 169系も489系も碓氷峠を越えるためのスペシャリストなのです。

489系のバラエティー

1971年から74年ににかけて製造された489系は485系がそのデザインを変えてゆく過渡期と重なるためそのバラエティーを引き継ぐことになります。
1次車は 1971~72年上期に製造されたグループ(9連×5本)
いわゆるボンネット車であるクハ489形 0番台と500番台を含みます。
(タイフォンがスカートにある1971年製造車とボンネットにある1972年製造車があります。)
外観は485系0番台と同じくAU12形クーラーを搭載。
2次車は 1972年下期に製造されたグループ(9連×5本)
貫通形のクハ481形200番台タイプのクハ489形 200番台と600番台を含みます。クーラーは集中型。
3次車は 1973~74年に製造されたグループ(9連×4本)
非貫通形のクハ481形300番台タイプのクハ489形 300番台と700番台を含みます。クーラーは集中型。
その後 2次車と3次車では中間車の入れ換えがあり 78年にはサロ489形1000番台を10両の追加しています。
(サロ489形0番台と入れ換えあり)
そして その大半がJR西日本に継承されるのです。
JR東日本に継承されたのは2次車のみ それも3編成だけでした。

どういうわけか影の薄い-JR東日本の489系

489系は碓氷峠を越えるためのスペシャリスト。
1997年に長野新幹線の開業により横川 – 軽井沢間が廃止されればお役御免というところです。
とはいえ廃車するのは早すぎます。
以後 上越線経由の夜行急行「能登」として上野~金沢間で運用されます。
「能登」の定期運用なきあともTDL(舞浜)臨などで2012年まで首都圏に乗り入れていました。
ですから489系は関東の方々のほうが 馴染みがあるように思います。

JR西日本 489系H2編成 舞浜臨

撮影2009年3月:葛西臨海公園

しかし これら489系H編成もJR西日本の所属です。どうしてJR西日本なの?と言われそうですね。
もともと489 系は 碓氷峠越えるために作られたスペシャリストです。
その碓氷峠は群馬県と長野県の県境にあり JR東日本のエリアなのですから。

1983年の国鉄電車編成表を見ると489系はそのすべてが金沢運転所に配置されていました。
金沢運転所はのちJR西日本の所属となりますから どうやらこのへんに原因がありそうですね。
しかし前述したように489系はJR東日本にも489系は継承されています。
それもボンネット型よりも新しい貫通路付き(485系で言えば200番台タイプ)です。
ところが2000年までに全車廃車となっているのです。
JR西日本よりも10年以上も前です。いったいなぜ?

JR東日本 489系 「あさま」 N303編成⑨ クハ489形200番台 クハ489-203


撮影 1997年8月:大宮

「妹たち(189系)と違って 金沢まで遠出できる私は長野の家を空けることが多かったの。
だから…存在感が薄いのは当然よね。当然 私には碓氷峠の栄光を伝えていく使命があるとは思ってた。
でも 金沢のボンネットお姉様の存在感に勝てはしないわよ。そこはお姉様におまかせね」
「オーナーは妹たちに引き続き中央東線で働かせるって言ってくれてる。
私は遠出できるわけだけど 引き受けてくれるところはなさそうだし 今さらヨソで働こうとは思わないわ」
彼女たちはここが引き際だと思ったのでしょう。

さて 特急「白山」なんですが JR東日本にとってあまり旨みのある列車ではなかったのではないでしょうか。
「白山」は 富山、金沢と首都圏を最短距離で結んではいるものの上野-金沢の所要時間は6時間半です。
対して 当時、長岡経由で上越新幹線とリレーすれば5時間ほどでした。
JR東日本としては、運賃収入に加え特急料金でもがっぽりいただけるわけで こちらを利用して欲しいと思うのは当然でしょう。
しかしJR西日本にしてみれば、新幹線乗り継ぎ割引で特急料金を値切られてしまうわけですから、
乗り換えなしのメリットとお安い運賃でこちらをアピールしたいところです。

1997年、長野新幹線の開業により信越本線の横川 – 軽井沢間が廃止された以上、
JR東日本としては 489系より車齢の新しい189系の活用を優先して考えるのは当然のことです。
JR東日本所属のN300台編成については全車廃車となりました。

参考文献 「碓氷峠」RM Models 1997年9月号増刊 ネコパブリッシング
鉄道ピクトリアル「特集485.489系特急形電車ⅠⅡ」1988.8./9 No’498/499

*この記事は2012年1月21日にUPしたものがベースとなっています。

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