2000系には、「スーパーカー」の愛称がありました。
なにがスーパーなのかというとまずは回生ブレーキ。
勾配のある山岳路線ならいざ知らず、都市間連絡の大手私鉄で回生ブレーキを導入したのは2000系が最初です。
加えて台車。当時通勤電車では珍しいエアサス台車を100両に及ぶ全車両に装備しました。
そしてなにより全電動車方式による高加減速性能がすごい。
起動加速度4.0 km/h/s、減速度4.5 km/h/sという数値は阪神ジェットカーに匹敵するものでした。
ということからもわかるように2000系は高性能「スプリンター」です。
2000系「スーパーカー」
2000系は1959年製です。
2000系は1978年に登場した2600系に取って代わられることになりました。
20年ほどで引退ということになりますね。一体どういうことだったのでしょうか。
かつてスプリンターの存在が特に必要とされたのは守口-萱島間です。
しかし同区間の複々線が80年に完成し待避線に逃げ切るという必要がなくなりました。
加えてラッシュ時の切り札ともいえる5ドア車の5000系も増備されてきたことから普通列車として使うケースは減ってきました。
また京阪本線には寝屋川-香里園、中書島-淀-八幡市など駅間距離が長いところが結構あります。
阪神ジェットカーのように普通列車専用というわけにはいかないのです。
2000系は急行、準急にも用いられることになっていきました。
しかし2000系は高速性能までも「スーパー」とはいかなかったのです。
83年の1500V昇圧にむけその性能を見直す必要が出てきました。
加えて冷房化です。全電動車方式の2000系には床下スペースに余裕はありません。
冷房化するには足回りを全面的に見直す必要が出てきました。
そこで2000系は車体、台車を流用し制御装置を換装、冷房化などの改造を施すことで生まれ変わることになりました。
それが2600系です。
2600系への改造ポイント
78~82年に 3連×5本、4連固定×6本、(2連+2連)×14本、2連×4本=103両がすなわち2000系のすべてが寝屋川工場で再生されることになりました。
注:2000系は100両製造されましたが、2200系から3両編入され総勢103両となります。
2600系へ改造するにあたっては83年の1500V昇圧に向け複電圧仕様で登場しました。
主制御器のみならず主電動機も新品に交換されました。
抵抗制御:ES715A→界磁位相制御:ACRF-H4155-775A
電動機:TDK-813A(75kw)→TDK-8135A(155kW(600V時130kW))
出力をUPすることでT車を捻出しここに大型のMGを搭載することで冷房用の電源を確保しました。
パンタグラフも菱形から下枠交差型に交換し屋根上に設置するユニットクーラーのスペースを確保しました。
引き続き回生ブレーキを導入したことからT車にもパンタグラフを装備しました。
起動加速度こそ2.5km/h/sに抑えられましたが最高速度は110km/hに引き上げられました。
性能面では2200系とほぼ同等になっています。
これで急行用としても運用できるようになったわけです。
一方でMTユニットでありながらも、2連で運行できることを基本としました。
このことで4〜8連に対応できる2000系ゆずりの編成自由度の高い車両となりました。
あと外見ですが、前照灯を白熱灯からシールドビームに交換しました。
ただしケースはそのままなので目玉焼き風になっています。
先頭車にスカートを設置するなど見た目での判別は容易です。
2600系のバリエーション、そして29F 。
78~81年竣工の01~10Fは2600(Mc)-2700(M)-2800(Tc)の3連固定で登場しました。
これを番号順に連結、6連で運用していました。
ただし81~82年に05~10Fについては2900形(T)を追加し4連化しています。
79~82年竣工の11~24Fは2600(Mc)-2900(T)+2700(M)-2800(Tc)の4連です。
2連+2連に分割可能となっています。
79~82年竣工の25~28Fは 2600(Mc)-2800(Tc)の2連です。
京阪本線で2連での運行はないので他編成と組合わせての運用となります。
2200系を初めとして多くの新系列車両が長大編成化していくのになぜ短編成となったのでしょうか。
それは 出町柳から叡山電鉄線へ直通運転する計画があったからです。
叡電は2連がMAXですから出町柳で増解結するつもりだったのでしょうか。
結果、実現はしませんでしたが、2000系には運転台付きの車体がたくさんあります。
2000系の車体を活かすというのなら それは納得できます。
さて2000系改造車となる最後の編成が29F です。
82年竣工の29Fは 2629(Mc)-2729(M)-2829(Tc)の3連で登場しました。
2連か4連に統一されていく中で3連とは中途半端ですね。
すぐにでも4連化するつもりだったのでしょうか。そうではなさそうです。
29Fは2200系(当時は2210F)4連と編成を組み7連化することを前提に増備されました。
それならば初めから2200系3連を用意すればいい話なのに、一体なぜ2600系なのでしょうか?
まさに異色の編成。今回の珍車です。
ここで2200系について、押さえておきたいと思います。
2200系
2200系は1964年にデビューしました。
急行や準急に使うことを前提とした3ドアの抵抗制御車です。
2000系とは違ってMT編成となり経済性を重視しました。
また回生ブレーキをやめ、発電ブレーキに変更されました。
その後、1500V昇圧対策工事と併せて冷房化。(76~78年)
83年の昇圧後、84年からリニューアル工事が行われました。
さて87年以降のリニューアル車については、制御装置がACRF-155-576改に交換され回生ブレーキ付きの界磁添加励磁制御となりました。
これは大きな変更だと思うのですが 形式(車番)変更などは行われていません。
そして 回生ブレーキ付きの界磁添加励磁制御となる2210F4連に 界磁位相制御装置ACRF-H4155-755Aをもつ2600系3連2629F を混結しているのです。
わざわざ混結編成(2200系+2600系)にしたのはなぜでしょう。
それは2600系が寝屋川車両で製作されたことにあるような気がします。
寝屋川車両工場
寝屋川車両工場は1958年12月に萱島車庫としてスタートしました。
その後留置線を拡大延長し検査ピットを設置、1964年には『寝屋川車庫』と改称されました。
1970年には車両工場が竣工、1972年に守口車庫が廃止されるのに伴い 検査などの業務を一括しておこなうことになりました。
そして1974年。この寝屋川車両工場で2200系の冷房化及び昇圧改造がおこなわれることになったのです。
京阪OBであり元車両部長である澤村氏によりますとこの2200系改造が自社工場における車両新造、改造工事の原動力となったと述べておられます。
確かにそうでしょう。重量のある冷房装置を屋根上に搭載することで車体強度の見直しは必須です。
くわえて冷房電源を確保しながら複電圧車としてリニューアルしなければならないのです。
いくつものハードルを越えてゆかなければならなかったでしょう。
ここで蓄積されたノウハウをもとに1000系が新造されました。
旧性能車であった700系44両は当時最新鋭であった5000系がベースとなる高性能冷房車42両に生まれ変わったのです。
そして2600系です。
改造車とはいえ旧車体の腐食修理も徹底的におこなわれました。
その時の京阪が必要としている車両をタイムリーにかつフレキシブルに供給できるのが自社工場の強みです。
前述したように2600系は2000系を改造した車両です。
2000系の全てが2600系に改造されているのですね。
最後の3両は流れからすると2連でよかった。しかしそうなると1両余ってしまいます。
一方で2200系4連を7連化したいとなれば、この3両を転用するのがリーズナブルです。
寝屋川車両工場で2000系を2200系に改造するという手もあったかもしれません。
しかし 今までとは違う工程になりますし ライセンスの問題もあったかもしれません。
制御装置こそ違いますが 2210Fは回生ブレーキ付きです。
2600系にせよ2200系にせよ、ともにその中身を知り尽くしている寝屋川車両工場です。
なにかトラブルがあっても、何とかなるという自信があったに違いありません。
参考文献 鉄道ピクトリアル 特集 京阪電気鉄道
No281 1973.7 No427 1984.1 No695 2000.12 No822 2009.8
-鉄道車両写真集- |
1000系 2000系 2200系 2400系 2600系 2630系 5000系 へJUNP |
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