幼なじみでそのまま恋人になってしまった二人。
何らかの理由でともに故郷を追われ、別々に暮らすことになりました。
別れの悲しみは距離と時間が解決してくれるのでしょうか。
都会でいいようにこき使われた彼女は、似たもの同士の男と出逢い、小さな幸せを手にしました。
ところが何という運命のいたずらでしょう。
彼女は苦労人の亭主とある地方へ転職することになるのですが、なんとそこではかつての恋人が働いていたのです。
そして彼もまた、その地で伴侶を得て幸せに暮らしていたのです…。
ところが、なんと言うことでしょう。二人は、運命の再会に心が大きく揺れ動くのです。
そしてあろうことか。互いの伴侶同士もまた、新たな出逢いに高鳴る胸の鼓動を抑えることができないのです。
そんな韓国ドラマのような(純粋におもしろいという意味で)展開が鉄道車両にも見られます。
豊橋鉄道 1600 系 1601+1651です。
生まれは同じ静岡電気鉄道(現・静岡鉄道)。
120と121の車番で昭和6年(1931)、日本車輛で製造されました。
さて,以後彼らがどうなるか。
彼らの数奇な運命をわかりやすくご説明するためドラマ調にまとめてみました。
どうか。いやがらずにおつきあいください。
運命の再会
静岡電気鉄道120は、昭和13年(1938)に豊橋鉄道の前身である渥美電鉄に転属、デホハ120となります。
ここでは「彼」とよぶことにしましょう。
「彼」は昭和16年(1941)に改番されて、モ1201となり、昭和31年(1956)に元・相鉄のク1504(後のク2402)とペアを組むことになります。
静岡電気鉄道121は、昭和18年(1943)に、(旧)西武鉄道に転属、モハ120形121となりました。
ここでは「彼女」とします。彼女はほどなく制御車化され、クハ1120形1121となりました。
続いて、昭和23年(1948)にクハ1151形1159、昭和27年(1952)にクハ1231形1238に、29年(1954)には1231(2代目)へと、めまぐるしく改番を重ねます。
詳しいいきさつはわかりませんが、戦中、戦後の混乱期に翻弄されてきたに違いありません。
更に、昭和31年(1956)には再び電動車化され、モハ151形161(2代目)となりました。
そこで「彼女」は、数奇な半生を経てきた元・西武のクハ1122(豊橋ク1505→改番後ク2301)と一緒になるのです。
そして夫とともに昭和34年(1959)に、豊橋鉄道に譲渡されたのですが、…ここで、なんと元「彼」である元・静岡120との再会となったわけです。
でも「彼」は元・相鉄のク2402と、「彼女」は元・西武のク2301と、それぞれそのままの編成で仕事を続けます。
まあ、おいそれと別れられるはずもありません。
それぞれの伴侶には一筋縄ではゆかない事情があったのです。
豊橋鉄道 渥美線 ク2400形 2402 もと神中鉄道ガソリンカー
「彼」のパートナーであるク2400形は、もと神中(じんちゅう)鉄道のガソリンカー キハ40形42です。
昭和15年(1940)に日車で製作されました。
登場後に故障が多発した事から「42」を忌避し、すぐさまキハ50形52に改番された経緯があります。
昭和18年(1943)神中鉄道は(旧)相模鉄道(現相模線)に吸収合併。
彼女は客車化されてホハ50形となりました。
その直後に相模線を国有化されてしまった相模鉄道は大東急の傘下に、その資本力をもとに相鉄本線は電化されます。
彼女は電車用のサハ50形を経て相模鉄道 クハ1050形となり、最終的にはクハ1500形1504となっていました。
彼女もまた戦中、戦後の混乱期に翻弄されてきたのです。
豊橋鉄道にやってきたのは 昭和31年(1956)。
豊橋ではク1500形1504となり、元・静岡120である「彼」 モ1201とペアを組むことになりました。
豊橋鉄道 渥美線 ク2300形 2301 もと西武ガソリンカー
「彼女」のパートナーとなったク2301は、旧・西武鉄道のガソリンカー キハ21形22です。
昭和13年(1938)に日車東京支店で製作されました。
旧とはいえ、なぜ西武がガソリンカーをそれも全長10mに満たない小型2軸単車を作ったのでしょう。
(ちなみに(旧)西武鉄道は、新宿線系統の前身で、1945年に池袋線系統の前身である武蔵野鉄道に合併され西武農業鉄道となり翌1946年に現在の西武鉄道となりました。)
実は、彼の出身地は今の西武多摩川線です。
西武の路線ではあっても、線路は繋がっておらず独立したこの路線は、多摩鉄道が1922年に境(現:武蔵境)から是政まで全線開通させたものです。
蒸気機関車が木造の2軸客車を牽引する軽便鉄道でした。
それが1927年(旧)西武鉄道に合併され多摩線となったのです。
砂利輸送のかたわら旅客輸送するのにガソリンカーも運行することになりました。
1938年生まれの彼は1950年に多摩川線が電化されるまで活躍し、同年非電化で開業した上水線(現・拝島線)へ転属しました。
同線が電化された後も1956年頃まで運用されたそうです。
その後、休車状態だった彼が初代モハ101系のクハ1121形として落成したのは1958年。
当時、利用客の急増に対して車両不足を解消するため、全長10m未満の小型二軸単車である彼にまで声がかかったというわけです。
改造に際しては全長13m級にストレッチ3扉車体となり、台車も交換、ボギー車に改造されました。
架線電圧600V当時の多摩湖線に導入され、初代モハ101形とともに活躍したのはわずか1年ということになります。
ちなみに元・静岡121であった「彼女」が戦前に制御車化されたときの形式が奇しくもクハ1120形です。これも何かの因果でしょう。
再度電装され西武モハ151形161となった「彼女」とともに、彼は昭和34年(1959)、クハ1122は豊橋鉄道に転属することになります。
豊橋ではク1500形1505となり モ1202と名を改めた「彼女」とそのまま編成を組むことになりました。
ガソリンカーって?
彼らの共通点はもとガソリンカーという点にあります。
気動車のエンジンといえば、船舶あるいは、トラックがそうであるようにディーゼルエンジンと相場は決まっています。
しかし、彼らはガソリンエンジンを搭載した気動車としてデビューしました。
なぜ、ガソリンエンジンだったのでしょうか。
併せてなぜ現在、鉄道車両にガソリンエンジンを搭載しなくなったのでしょうか。
ディーゼルエンジンの利点といえば、ガソリンに対して安価な軽油が利用できることをメリットの一番に持ってくる人も多いのですが、
点火プラグの必要がないことなどから、ガソリンエンジンに対して構造がシンプルにできていることもメリットとして挙げられます。
またシリンダー内の空気を高圧縮することから、頑丈にできておりエンジンの寿命も長いのです。
エンジン自体は頑丈な分、高価ではありますが、燃料代にくわえ、メンテナンスを含め長い期間使うことで経済的に優れたエンジンです。
対して、ガソリンエンジンの利点はシリンダー周りの強度をディーゼルエンジンほど求められないことから、高回転形で小型軽量なエンジンを製作できることです。
当時、彼らのような軽量気動車の車体に見合った出力の小形ディーゼルエンジンが開発されてなかったとなれば、ガソリンエンジンを搭載するのも理にかなったことです。
ただ忘れてはならないのは、燃料それ自体の安全性です。
軽油は、引火点は低いものの揮発性がないので常温で爆発することはありません。
対して、ガソリンには揮発性があり、引火しやすいという問題点があります。
実は戦後、鉄道車両にガソリンエンジンを搭載しなくなったのは、
189人もの死者を出した西成線(現JR西日本桜島線)安治川口駅ガソリンカー横転火災事件(昭和15年)という、痛い経験があるからなのです。
そう彼らには「あぶないヤツ」というレッテルが貼られていました。
しかして、熱い彼らのハートは封印されることになります。
しかし、ガソリンエンジンの力強いビートは彼らの体に染みついていたに違いありません。
「あぶないヤツ」と言われた過去をもつ二人が心惹かれ合うのは自然なことです。
「あぶない」二人は…
昭和57年(1982)、そんな二人は廃車となりました。
それぞれの画像をよ-くご覧ください。
実は、そんな彼らが、手を携えて豊橋を去る…その日を待っているときの画像です。
残されたモ1602は方向転換されモ1650形1651となり、モ1601とMc+M´c の編成を組むようになりました。
ここにめでたく同郷の幼なじみが手をつないだわけです。
彼と離ればなれになった1938年から44年…。
運命の再会を果たした1959年から23年以上の月日がたっていました。
この画像の1600系は前述のもとガソリンカーたちと同じ日に撮影したものです。
何かしら淋しそうな気がするのは私の思い込みが強すぎるからでしょうか。
「彼」モ1601と「彼女」モ1651は
かくして、「彼」モ1601と「彼女」モ1651はペアとなって仲良く活躍した後、
昭和63年(1988)8月に行われたお別れ運転を最後に現役を引退しました。
その際、車体は名鉄の旧・標準色であるダークグリーンに塗り替えられました。
その後しばらくは、高師の側線に留置され、平成4年(1992)に、そろって廃車となりました。
-鉄道車両写真集- |
豊橋鉄道 電気機関車 昇圧以前の旧型車 1900系 へJUMP |
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