生駒ケーブルの歴史。
8月29日はケーブルカーの日となっております。
大正7年8月29日に日本初のケーブルカー宝山寺1号線(930m)を生駒鋼索鉄道が開業した日に由来します。
その名が示すの通り、もともと 宝山寺「生駒の聖天さん」への参拝客を輸送する目的で作られたものです。
なんと軽便鉄道法で開業しているのは意外ですが、開業初年度の乗降客数は144万人。
2年後には300万人を突破。と好調の波に乗り昭和元年複線化。
1号線と平行に2号線を設置、行き違いができる中央部は複々線になっているという迫力満点のケーブル線が完成します。
加えて昭和4年には宝山寺-山上間(約1キロ)の線ができ、生駒山上遊園地が開業。
生駒山は関西人のレジャーのメッカと登り詰めて行くのでありました。
ところが、この生駒ケーブル全線が廃線となる危機が訪れました。
戦争です。家庭の鍋、お寺の鐘まで供出しなければならない非常時にあって、
「不要不急のケーブルカーなどいらぬ!」ということになってしまったのです。
この存続の危機にさらされた生駒ケーブルを救ったのは生駒山上遊園地のシンボル「飛行塔」でした。
ワイヤでつるされた飛行機型のゴンドラが空を旋回するやつです。
(塔は開園当時の姿で現存します。国内最古の大型遊具です。)
この塔が米軍機の襲来を監視する防空監視所となり、ケーブルは兵員輸送用に残されたのです。
ですから2号線は撤去、単線化されました。
そして終戦。生駒ケーブルは1年半の休止期間を経て営業を再開。
昭和28年には宝山寺2号線も復活しました。
生駒ケーブルは生駒山上遊園地に救われたと言っていいでしょう。
生駒ケーブル なう。
しかし生駒山上遊園地は1992年の約73万人以降、テーマパークとの競合や遊園地離れの影響で入園者は減少。
1999年には入園料の無料化にまで踏み切りましたが、閑散期は休園、入園者数は落ち込む一方です。
そこで生駒山上遊園地への観光客を誘致すべく2000年3月に登場したのが、
常識を超越したデザインのケーブルカー、すなわちコ11~14です。
(コ13.14は山上線用)
ブルドッグと三毛猫を摸したFRP製のマスクもスゴイ迫力ですが、
イルミネーションがギラギラ輝く車両は遊園地そのもの。他に例を見ない強烈な個性です。
「こんどは俺たちが、生駒山上遊園地を救うのだ!」
とブルは檄を飛ばしているように私には見えます。
ブルと三毛がデビューした年の夏休み、私はウチの娘(当時幼稚園)を連れて生駒山上遊園地へゆきましたが、行き違うたび歓声を上げ大喜びでした。
なんでも、デビューしてから3ヶ月の乗客数は前年度比で40%増とか。
しかし、現在宝山寺線は両側にマンションや住宅が建ち並び、定期客が多数を占める通勤通学路線でもあります。
毎日毎日、通勤通学に通う方々にとっては、コイツらが夢に出てきてうなされることも、
おありになるのでは…と私はいらぬ心配をしてしまうのでありました。
ケーブルカーのモータ-。
さて、鉄道において、長い間直流モーターが利用されてきたのは、
1、起動時に大きな電力を必要とする
2、回転数の制御に幅を持たせる
という理由からですが、鋼索鉄道の巻き上げ機にはそんな必要もないということで交流を用いるのが普通です。
しかし、この宝山寺1号線と次いで開業した小田原電気鉄道、3番目になる信貴生駒電気鉄道には直流が用いられたのです。
そして戦後も直流を用い続けたのは、近鉄 東信貴鋼索線(旧信貴生駒電気鉄道)だけで、当線は惜しくも廃止されてしまいました。
もっともこの車両に直流モーターがついているわけではないので、珍車ギャラリーからは外すことにしましたが、たまたまこの写真を発掘しましたのでこの場を借りて展示させて頂きます。
初出:2005年6月4日
参考文献、近鉄鋼索線の史的考察 中川浩一氏 鉄道ピクトリアル398号 1981.12
-鉄道車両写真集- |
生駒鋼索線、東信貴鋼索線 へJUMP |
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