地下鉄乗り入れ車両でありながら京津線併用軌道を走行する京阪800系を、そしてこの地下線区間の開通によりお役御免となった80型についても珍車ギャラリーで取り上げました。
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この京津線の地上区間(蹴上-九条山)には66.7‰という国鉄きっての難所=碓氷峠に匹敵する急坂まで存在しました。京都市内とは思えない山岳路線です。
さてそんな京津線を開業させたのは京津電気軌道。1912(大正元)年12月に 三条から旧東海道に沿って大津旧市街(札の辻)を結ぶ路線を開業させました。
さて開業当時 どんな電車が走っていたのでしょう?京津1形です。
見た目は日本最古の路面電車「京都電気鉄道」由来のN電27号とさして変わらないオープンデッキの小型木造車です。ただし足回りが違います。N電27号は4輪単車であるのに対し 京津1形はボギー車です。それも異径車輪のブリル22E-1台車を履いていました。
4輪単車は構造も簡素で軽量です。しかも車軸間(ホイールベース)が長いことから安定してもいます。しかし曲線がきつくなると曲がりきれません。山岳路線でもある京津線には急曲線がいくつもあります。ボギー台車を選択しているのはそういうわけです。
ただどこにでもあるボギー台車ではダメです。京津線にはとんでもない急勾配があります。強力なモータが必要です。車長10mに満たない小型車に大きなボギー台車を取り付けるわけにはいきませんでした。異径車輪となっているのは大きなモータを取り付けるためです。
これで解決!といいたいところですが、軽量小型の京津1形です。このままではすぐ空転してしまいます。ボギー車は4輪単車の2倍接地点があり軸重が分散されてしまうからです。
そこで22E-1台車です。「マキシマムトラクション台車」とも呼ばれています。
トラクションとは牽引力の意。これを最大限発揮させるために台車の重心を動軸につまりモータを装架してある大径車輪に寄せてある特殊な構造です。
この台車があっての京津線ではなかったか。と思うのですがいかがでしょう。
前置きが長くなりました。言いたかったのは京津線を走るということがいかに大変かということです。
京津電気軌道は京都資本の会社で当初から乗客を大阪から京阪経由で大津へ運ぶことをもくろんではいました。しかし最も積極的だったのは京阪電気鉄道です。
ただ当時、京阪電車がそのまま乗り入れてくることまでは考えていません。1912年の設立時、京阪のターミナルは五条。三条までつながってもいません。三条-五条間の免許を取得している京都市に同区間の使用許可を取り付け、京阪が五条-三条間の営業を開始したのは1915(大正4)年のことです。
すったもんだあったようですが1925(大正14)年2月に京津電気軌道は京阪の傘下に入りました。同年5月 用地買収で頓挫していた札ノ辻 – 浜大津を延伸開業、京津線は京阪によって全線開通することになります。そして4年後の1929(昭和4)年に京阪は琵琶湖鉄道汽船を手中に収め京阪大津ネットワークを完成させます。
琵琶湖観光に圧倒的なアドバンテージを得た京阪が 何とか直通運転できないかと考えるのは自然なことです。ですがそれを実現させるには大きな壁がありました。それは京津線と京阪線との輸送力の違い?いやそうではなさそうです。
今からは想像もできないことですが、京阪は1910(明治43)年の創業時、その3分の1が併用軌道で ずーっと単行運転のトロリーラインでした。天満橋-守口間で連結運転が始まったのは1924(大正13)年のことです。
大きな壁とは何か。それは京津線と京阪線の路線環境の違いです。
京阪線では1915(大正4)年には本格的に急行運転がスタートしています。急行停車駅には高床ホームを設置、2年後には急行専用の高速化対応電車100型(両運転台車)をデビューさせました。
一方、京津線には66.7‰という急勾配がある山岳路線で急曲線も各所に存在します。ここでデビューした京津1型が半端なものではないということは前述しました。100型をそのまま京津線に乗り入れさせるなんてことはできません。
しかし京阪間を高速運転させそのまま京津線に乗り入れることができる車両があったなら…。
この夢を叶えることになるのが1934(昭和9)年に登場した天満橋-浜大津間を結ぶ特急「びわこ号」すなわち60型なのです。

60型の車体は 高床用、低床用の扉をともに設置。逢坂山付近の急曲線区間に対応するため日本で初めての連接構造としました。
両端台車はD-12、名鉄モ600形と同型の釣合梁台車で動台車となります。モータはTDK-517-SA1(72.0kw×4)
中間台車はD-13、付随台車で直上に円筒状の金属製貫通路を装備しています。

制御器はES-517-SB電動カム軸制御器。高速路線と急勾配路線 で求められる異なった走行特性の両立を目ざし様々な改良がなされています。

ただし連結運転には対応していません。でも多くのお客様に乗って欲しい。…だからこその連接車でもあります。
そして 多くのお客様に知っていただくために当時流行りの流線型ボディも取り入れました。
京津線では ダブルポールを使用していましたが 高速化を進めていた京阪線では1932年からパンタグラフ化これも併設しました。
思えば なんと欲張った電車でしょう。
びわこ号は 集電装置を切り替えるため三条には停車しましたが事実上ノンストップ運転で 大阪-浜大津の直行列車として運行されました。
幸せな時期は永くは続きませんでした。びわこ号は観光列車です。太平洋戦争開戦により不要不急の存在とされてしまうのです。
戦後も60型にびわこ号の仕事がまわってくるはずもなく、1948年までに全編成が京津線四宮車庫に集結することになりました。いや 京津線で働ける貴重な存在だったと言うべきでしょう。
1949年8月 四宮車庫で火災が発生、入庫車27両中22両が全焼するという大惨事が発生しました。
四宮車庫に入庫中だった61・63は 職員の機転と近隣住民の協力により手押しでの脱出に成功したとのことです。60型は幸運にも全車被災を免れました。
60型はその後も京津線を中心に運用され京阪本線への直通運転も臨時列車で実施されてはいました。しかし京津線対応の小さな車体では戦後の京阪線新型特急車群とは比較になりません。直通運転は1961年を最後に運用されなくなり 京津線でも各停用にはステップ付き低床車80型、急行用には高床車260型が充当され60型は1970年までに順次廃車となりました。
しかし63号だけは錦織車庫で保管されていたのです。
1980年に京阪電鉄創業70周年事業の一環として63号を新造時の姿へ復元する工事が実施されました。以後「ひらかたパーク」に静態保存されていた63号は「ひらかたパーク」のリニューアルに伴い保存場所を寝屋川車庫へ移動します。
2009年 63号は 経済産業省の近代化産業遺産に認定されました。これを受け「『びわこ号』復活プロジェクト」として動態復元を目指すことになりました。
自走こそかないませんでしたが 63号は寝屋川車庫構内で構内入替車(旧70型電車)の牽引により走行しました。

そして夢は603号に引き継がれます。なかなか似合っていますね。
63号の画像は2015年10月撮影。603号は2023年4月撮影。
参考文献:「歴史に残る京阪の車両」鉄道ピクトリアル「特集 京阪電気鉄道」2000.12
「京阪電車車両の100年」京阪電気鉄道発行 2010
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