京阪大津線を路面電車とするかどうか。諸説あるみたいですね。私が参考文献とする鉄道ピクトリアル「路面電車特集」は1976、1994、2000、2011年とあるのですが 2011年号以外では取り上げてはいません。画像をご覧ください。

確かにこんなの誰も路面電車とは思わないですよね。

しかし これまた私が参考文献とする「路面電車新時代」 2006年刊で 服部重敬氏はこの大津線をして「広島電鉄、富山ライトレールと並んで、わが国でもっともLRTの定義に近い都市交通システム」とされています。この800系はなんと道路上の併用軌道も走るのです。
珍車ギャラリーでも取り上げました。ぜひこちらもご覧ください。→珍車ギャラリー#291 京阪電気鉄道800系
京都市営地下鉄東西線の開通によって800系が登場するのですが その際 京津線の西半分が廃線となりました。輸送需要だけで考えれば石山坂本線用の2連を浜大津から山科まで乗り入れさせ 山科で地下鉄に乗り換えることで 十分対応できるでしょう。しかし京阪電気鉄道は大津線を1500Vに昇圧し前代未聞の「道路上を走る地下鉄」800系を導入することで 三条から乗り換えなしで浜大津へゆけるルートを確保したのです。それは京阪のネットワークを分断させるわけにはいかなかったからです。分断は京阪の歴史を否定することになるのです。その歴史とは?
さて大津線と一括りにしましたが それは1956年に路線名改正によって「石山線と坂本線は統合 石山坂本線とし京津線とともに大津線に属する路線」と位置づけられたことによります。
しかしそれぞれのルーツは違います。まずは石山線から。
大津に官設鉄道が敷設されたのは1880(明治13)年のことです。初代大津駅は今の浜大津にありました。その際官設鉄道(以下国鉄)は今の膳所からスイッチバックで浜大津まで乗り入れていたのです。
1889(明治22)年に東海道本線が全通するまでは ここから人も物資も琵琶湖経由で長浜まで運ばれていたのです。
1913(大正2)年 大津電車軌道が大津(今の浜大津)- 膳所(現膳所本町)間を開通させました。とはいっても国鉄が大津線として旅客営業をしていた初代大津駅-馬場駅(現膳所駅)間を電化および三線軌条化したものです。大津電車軌道はこの区間に8つの電停を設置し旧大津駅は浜大津駅となりました。貨物需要が激減したため可能になったわけですが大津市民にとってもこれは歓迎されたと思われます。翌1914年には膳所から螢谷(今の石山寺)までが、1922(大正11)年には三井寺 – 浜大津間が開業します。
大津電車軌道は1927(昭和2)年に太湖汽船と合併して琵琶湖鉄道汽船となりました。同年に坂本(現 坂本比叡山口)- 三井寺間が開通します。坂本線です。
この区間は1921(大正10)年に三井寺下-叡山間で開業した江若鉄道に対抗するため複線かつ直線的な高規格路線として建設されました。軌道法の適用を受けているとはいえ各駅のホームも高床式です。ポール集電の在来車は乗り入れできません。乗客はパンタグラフ集電の高規格電車 琵琶湖鉄道汽船100形に乗り換えざるをえませんでした。
この区間に京阪本線ほどの需要があるはずもありません。なのに100形は12両も新製されました。おそらく石山線への乗り入れも見越した先行投資だったのでしょう。しかし思惑は外れ 身の丈に合わない投資となってしまいました。これに救いの手をさしのべたのが京阪電気鉄道です。1929(昭和4)年 京阪は琵琶湖鉄道汽船を吸収合併します。12両もいた100形は京阪本線で引き取ることになりました。坂本線には路面電車用の低いホームが追加され 乗り換えも解消されています。
石坂線(いっさかせん)の誕生ですね。地元の方々はこう呼びます。
京津線のルーツは京津電気軌道。1912(大正元)年12月に 三条から旧東海道に沿って大津旧市街の中心(札の辻)を結ぶ路線を開業させました。大津電車軌道とほぼ同時だったんですね。京津電気軌道は京都資本の会社で当初から乗客を大阪から京阪経由で大津へ運ぶことをもくろんでいました。
もちろん京阪電車がそのまま乗り入れてくることまでは考えていません。当時の京津線車両はオープンデッキの古典的な路面電車でした。
すったもんだあったようですが1925(大正14)年2月に京津電気軌道は京阪の傘下に入りました。同年5月 用地買収で頓挫していた札ノ辻 – 浜大津を延伸開業、京津線は京阪によって全線開通することになります。ちなみこの時 琵琶湖鉄道汽船の浜大津駅に乗り入れたわけではありません。とはいえ大津市街の重要拠点に橋頭堡を築いたようなものです。前述したように4年後の1929(昭和4)年に京阪は琵琶湖鉄道汽船を手中に収めました。
1934(昭和9)年には天満橋-浜大津間を結ぶ特急「びわこ号」が登場、京阪本線と京津線の直通運転が始まりました。そして1939(昭和14)年には石山坂本線への連絡線が完成。京阪大津ネットワークが構築されたのです。
1943(昭和18)年 戦時統合により京阪電気鉄道は阪神急行電鉄と合併、京阪神急行電鉄となりますが 戦中戦後通して直通運転は続けられました。
1949(昭和24)年 京阪電気鉄道が再発足しました。ところが、さあ これからという1950年に四宮車庫が火災により焼失してしまうのです。
開業以来、併用軌道上に停留所が存在する京津線では乗降ステップ付車両で低床ホームからの乗降を可能としていましたが、今回の火災によってこれらステップ付低床車の大半が被災してしまったのです。この結果、京津線の各駅停車については低床車の残存車両をかき集めて集中投入し それ以外の浜大津直通急行・準急運用については併用軌道区間の各駅を通過扱いとし 高床、ステップなしの一般車を充当することにしたのです。大津線車両の有り様を決めたのは四宮車庫火災にあるような気がします。
この施策を引き継いで各駅停車用の低床車80形が登場し、260形300形350形が 直通運用も含めた石山坂本線に充当されることになりました。
京津線内の急行準急用車両は京阪特急色としました。優等列車リレーで京阪大津ネットワークをアピールするためです。
1997年 京都市営地下鉄東西線の開通によって京津線の西半分が廃線となり京阪大津ネットワークは分断されることになりました。
一方で併用軌道区間にあったすべての電停がなくなったのです。低床車80形はお役御免となりましたが高床車ばかりとなったわけです。
このことが京津線車両(800系)の地下鉄線乗り入れを可能にしたといえるでしょう。
かくして「京阪電車で浜大津に」という伝統は守られたのです。
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