「教訓は活かされた」筑豊電気鉄道 2000形 3車体連接車 珍車ギャラリー#099

「教訓は活かされた」筑豊電気鉄道 2000形 3車体連接車 珍車ギャラリー#099

私が初めて九州へ鉄旅したのは昭和40年代後半、まだSLがガンガン走っていた頃です。
直方駅から周辺をざっとと見回しただけでも20~30台のSLがいたのではないかと記憶しています。
この筑豊地区から産出される石炭を元に発展した北九州工業地帯も健在で、夜に初めて九州入りした私の目に飛び込んできたのは 宝石をちりばめたように輝く工場の夜景とライトアップされた若戸大橋の鮮やかな赤色とのコンビネーションでした。

そしてその翌朝、西鉄北九州線に乗車したときもこれまた驚きでした。
とにかく電車が、来るは、来るは、45秒おき!!(砂津-大門)
いやそれ以上だったような気さえします。
昭和44年に大阪市電がなくなり子供心にも路面電車は過去のものと思いこんでいた私は、
「九州は凄い、SLも路面電車も主役なんだ」
と認識を新たにし、嬉しくなってしまったのを覚えています。
そんな私がとりわけ「カッコイイ!」と気に入ってしまったのが連接車です。
後で調べてみると3車体連接車まであるというではありませんか。
しかし「なんとしても見たいなあ」と思う割にはなかなかお目にかかれませんでした。
当時、情報が乏しかったせいもありますが、実はこの3車体連接車、結構問題を抱えていて運用も限定されていたのです。

悲しいかな。平成12年11月折尾-熊西間が廃止され北九州線は熊西-黒崎駅前を残すのみとなりました。
それも実際には筑豊電鉄の路線の一部というべき存在でもう西鉄北九州線は消滅していると言ってもいい状況です。

でも北九州線は九州電気軌道が経営していた路線を引き継いだもので西鉄のルーツはこの九州電気軌道とされています。天神大牟田線よりも歴史があるのです。
かつては本線に加え、戸畑支線、枝光支線の3路線で39.7kmもあり小倉電気軌道由来の北方線を含め北九州市内の主要な交通手段でした。
北九州市内と一口に言いましたが、北九州市は昭和38年に門司市・小倉市・戸畑市・八幡市・若松市の5市による合併により誕生した都市です。
北九州線は市内線というよりこれらの各都市を結ぶ都市間連絡という役割を担っていました。
そのため専用軌道も多く路面電車のわりには停車場間の距離が長いのです。
電車の最高速度も60km/h(ボギー車)と路面電車としては高く設定されていました。

戦後の混乱期を経て昭和28年。1001AB がデビューします。
私のお気に入りであるスタイリッシュな連接車です。

半鋼製車両ではありますがデザインのみならず、性能、仕様ともかなり練られたものです。
モーターは45kw×4。ツリカケ式ではありますが 間接自動制御で当時の郊外電車と同じ仕様です。
部品の共通化も推し進め保守の軽減をはかりました。
1021AB以降は全鋼製になるなどマイナーチェンジを重ねつつ 昭和42年7月の1067ABまで14年にわたって増備し続けることができたのもしっかりした設計思想があったからでしょう。
しかし私にはこのことが皮肉なことに北九州線の未来に暗い影を落としていたと思えてならないのです。

1000形には3車体連接車が7編成存在します。
昭和38年のデビューで 車番は1045.1052~57の各ABCです。
日本初の3車体連接車です。別形式を割り当ててもいいような気がします。
しかし車番は飛び飛び、落成順というわけでもありません。
何故でしょう?
実は既存の2車体連接車A車+B車に後から中間車C車を組み込んだからなのです。
昭和37年の増備計画では3車体連接車を北九州線(日車)と福岡市内線(日立)に1組づつ試作する予定でした。
しかし福岡市内線の1202ABに組み込むはずの1202Cは 道路交通法のかねあいで認可が下りず宙に浮いてしまったのです。

福岡市内線の1201形は カルダン駆動の連接車である1001形(福)をツリカケ式に先祖返りさせたものです。
ただ出力が37.4kwのままだったためこれに付随車であるC 車を組み込むのは やはりチョット無理だったような気がします。
そんなわけで出力が45kwの1000形(北)に転用することにしたのです。
1202Cは日立製です。相方には日立製の1045が選ばれました。

さて1201形(福)より1000形(北)のほうがパワーに余裕があるとはいえ付随車であるC車を組み込むことが負担であることには変わりはありません。
少しでも軽量化するために車体は短くC車にはドアも取り付けられませんでした。
3人乗務から2人乗務へという流れの中でまた扉を増やすということには抵抗があったのかもしれません。
しかしこのことが結局、乗降時間の増大につながりラッシュ時の救世主として登場したはずの3車体連接車が逆にお荷物になるということにもなってしまったのです。
それでも胸のすくような高加速で遅れを取り戻すというのならまだ許せます。
しかし標準品である45kwモーターのままです。パワー不足ではそれもなりません。
もっとも古い電車も総動員されるラッシュ時のことですから多少の非力さはさして問題にならないかもしれません。
事実、3車体連接車はラッシュ時限定で使用されました。
…でも考えれてみればもったいない話です。
これでは働き盛りの若い車両を旧型車同様に引退させてしまったのと同じことではないでしょうか。
苦境に立たされる北九州線は その後、エネルギー革命により石炭産業が斜陽化し筑豊炭田をバックに発展してきた北九州工業地帯はその存在価値を失ってゆきます。
長大重厚型の素材産業からの転換を探るその過程で北九州の工業地帯は その大きな波に飲み込まれ景気は停滞、人口は流出しました。

一方、かつての国鉄はJRとなり通勤電車を増発してきました。
線形が圧倒的に有利なJRに都市間連絡としてのお株を完全に奪われ、それでなくとも減ってしまったお客をすっかり奪われた西鉄北九州線が消えてゆくのはどうしようもない歴史の流れのようにもみえます。

私はそれはそれで確かにそういう点も認めはしますが、一番の理由はマイカーによる乗客離れと思っています。
そしてその流れを食い止められなかった原因は西鉄自体にもあったのではないかと思うのです。
1000形連接車はデビュー当時ツリカケ式とはいえ実に優秀な電車でした。
しかしあえて昭和30年代の後半から40年代にかけて最も乗客が多かった時期につまり余力があった時期に次世代の3車体連接車を開発するべきだったのではないでしょうか。
乗客がまた乗りたくなるような電車を西鉄なら作れたと思うのです。
なまじ標準化したことで膠着してしまったことが残念でならないのです。
自治体も存続に向け後押しをしてくれたと聞きます。本当にどうにもならなかったのか…。

いまはどこの鉄道事業者も厳しい現実にさらされています。
特に北九州地区の経済的な厳しさは他の地区とは一線を画するべきなのかもしれません。
また隠れたライバル事業者が日本一のバス事業者”西日本鉄道”だった。
ということもあげておかねばならないでしょう。
鉄道だけで生き延びるしか道のない事業者ではなかったことも北九州線にとっては不幸なことでした。
昭和55年に北方線、昭和60年に戸畑支線、枝光支線、本線の砂津-門司間が廃止され平成4年の砂津-黒崎駅前間の廃止によりもはやその時点で北九州線は本来の機能を失ってしまったといえるでしょう。

でも西鉄の連接車は生き残りました。


もともと自前の車両を持たなかった筑豊電鉄が 福岡市内線の連接車を導入し3車体連接車として改造、導入したのです。
2000形3車体連接車です。
1045ABCの欠点であるC車の扉も取り付けられパワー不足を補うためにモーターの出力も55kwにアップしました。

-教訓は活かされたのです。-
昭和52年には冷房化もなされ攻めの姿勢が感じられます。


車内にはTVを取り付けブラウン管越しに美女が次の駅を案内してくれます。

筑豊電鉄は西鉄の子会社です。しかし鉄道とともに生きるための会社です。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」筑豊電鉄の活躍に大いに期待する私です。

参考文献:鉄道ピクトリアル 特集 西日本鉄道 No292 1974年
路面電車ガイドブック 誠文堂新光社 1976年

この記事は2007年7月に「西鉄 1054 3車体連接車」としてUPしたものをベースに書き改めました。

-路面電研究- →鉄道車両写真集index
○筑豊電気鉄道 2000形 冷房改造車 更新車 /2100形 /3000形 リニューアル車  /5000形
西鉄 ■北九州市内線  1000形2車体連接車 3車体連接車

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