万葉線の歴史 ざっと 高岡-新湊-富山 加越能鉄道 高岡軌道線 新湊港線

万葉線の歴史 ざっと 高岡-新湊-富山 加越能鉄道 高岡軌道線 新湊港線

万葉線は2002年4月に設立された3セク事業者である万葉線株式会社が運営する路線名です。
正確には高岡駅停留場から六渡寺(ろくどうじ 旧 新湊)駅までの高岡軌道線(8.0km)と六渡寺駅から越ノ潟駅までを結ぶ新湊港線(4.9km)の2路線から構成されています。

高岡軌道線と新湊港線(鉄道線)に別れているのはなぜでしょう?
まずは新湊港線の成り立ちからお話しします。

新湊港線はもと富山地方鉄道の射水線でした。しかしこれを開業したのは越中鉄道です。
高岡 – 新湊 -富山を結ぶ計画をもつ越中電気軌道は1924年に富山方の(富山北口 – 四方間)6.1kmをまず開業。
1926年には聯隊橋(後の新富山)まで延伸、ここで富山市電に接続しました。
1927年に社名を越中鉄道に変更し1928年に軌道から地方鉄道に変更しました。
その後 堀岡、越ノ潟、東新湊、庄川口と少しずつ延長しながら1933年に新伏木口までの19.9 kmが全通します。
これが1943年の戦時統合により富山地方鉄道(地鉄)の射水線となったのです。
これがのちの新湊港線になります。

1966年に富山新港の建設により射水線は分断されることになりました。
新港入り口部分となる堀岡 – 越ノ潟間は廃止となり高岡側の越ノ潟駅 – 新湊間が加越能鉄道(1950年設立)に譲渡されて新湊港線となりました。
(分断された区間には富山県営渡船が就航しましたが乗換えが不便なため乗客は激減、1980年に射水線は廃止されました)

高岡軌道線は1948年に富山地方鉄道が開業した伏木線(地鉄高岡 – 伏木港間)がルーツです。
1951年、国鉄 新湊線の旅客営業廃止に伴い 米島口 – 新湊(現 六渡寺)間が開業し、射水線を経由して地鉄高岡 – 富山市内軌道線西町間の直通運転が開始されました。
高岡 – 新湊 -富山を結ぶ計画 が実現したのは戦後ということになります。

1959年に高岡軌道線(地鉄高岡 – 新湊間)は加越能鉄道(1950年設立)に譲渡されました。(射水線、富山市内軌道線との直通運転は継続)
1966年、前述したように射水線分断により 越の潟 以西(高岡側)が加越能鉄道に譲渡されて新湊港線となり高岡軌道線と一体化して運行されます。
一方で1971年には支線となった伏木線(米島口 – 伏木港間2.9km)が廃止されています。

加越能鉄道は1980年にこれを「万葉線」と名付けました。
ところでなぜ「万葉」線なのでしょう?
それは高岡が越中国の国府であり、国守として万葉集の撰者 大伴家持が赴任していたからです。
彼は在任した五年間にこの地で多くの歌を残しています。
これが高岡をして“万葉の里”と呼ばれる由縁であり、高岡の人々の誇りとなっているからです。

乗客離れは如何ともしがたく 2001年に加越能鉄道は決め手となる対策を打ち出せずバス代替の意向を示しました。
しかしこれを存続させるべく高岡市、旧新湊市が中心となり第三セクター会社「万葉線株式会社」を設立しました。
郷土愛が背中を押したのだと思われます。
高岡は加賀前田家二代当主 前田利長によって開かれた町でもあります。
富山のように城はありませんが、商工業都市へ転換を図るという政策により発展し明治22年の市制施行時には日本初の市の1つとして“高岡市”が誕生しています。
市街に鉄路を敷設するのが戦後になったのは国鉄氷見線と競合するということもあったでしょう。
また古い町であったこともその一因ではないかと思われます。
事実、道路は狭く高岡軌道線の高岡-広小路間は単線です。
しかし その分身近な存在だったのだとも思われるのです。

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万葉線 高岡軌道線 路線まとめ
デ7000形  7060形 デ7070形 デ7070形冷改 MLRV1000形
■加越能鉄道 高岡軌道線
デ7000形 デ7060形 デ7070形 デ5022

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