かねてから私は鉄道車両写真集と題して車輌の画像をUPしていますが、
ここ数ヶ月、路面電車の画像を形式別にまとめ直す作業を行っています。
そこで目にとまったのが1951年製の広電801号です。
今、現役で活躍している1983年製のチョッパ電車801号ではありません。
旧801号ということで そのプロフィールを調べはじめたのですが、なかなか彼女を紹介する文献に行き当たらないのです。
その理由は明快です。それらの文献が編集されたときには すでにその姿を消していたからです。
つまり旧800形は短命だったのです。
被爆電車である650型の後継車両となる旧800形は広電が戦後初めて導入した新車です。
しかし 早くも1972年には廃車が始まり 1976年には801(803を改造、改番)のみになってしまいました。
今回、この801号の画像がたまたま見つかったため とり上げることにしたのですが、この画像もすでに現役を退いた姿であると思えます。
広島電鉄は古い電車を大切に使い続けている鉄道会社です。
他所からやってきたものも含めて戦前に製造されたものを今なお使い続けています。
そう、齢70年を超える車輌もいるのです。
ところが旧800形の大半は20年ほどで姿を消し 改造工事を施して生き延びた801号でさえ1983年にお役御免です。
なにがいけなかったのか?
1951年に10両製造された旧800形には共通する車体を持つ仲間がいます。
京都市電800形(801~90)と伊予鉄道モハ50形(1次車:51~ )で ともにナニワ工機製です。
昭和20年代のことです 戦後の物資不足で車両の製作も思うにまかせない時代でした。
路面電車には いわゆる運輸省規格形といわれる共通仕様の電車はありませんが、
共通化された車体でもって 製造メーカーに発注しこれを配給するということはあったようです。
では戦後ナニワ工機で製造されたこれら姉妹車から広電旧800形に迫ってみたいと思います。
京都市電 800形
(写真は1800形:ワンマン化されて+1000)
京都市電800形の車体は11,950 mm:2,430 mm:3,810 mmの3サイズ。
計測ポイントの違いか、高さのみ広電旧800形の3,465 mmと差がありますが、
長さ幅とも同じで、台車間距離、オーバーハング、ドア幅までもが同じです。
妻面こそ傾斜角のついた丸妻流線型構造となっているのでイメージは違いますが、
ともに張り上げ屋根の半鋼製車体をもちます。
前後扉であることも勿論同じで窓配置はD(1)7(1)Dです。
(D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:窓数)
メカ的にも同じです。直接制御の吊り掛け電車で台車もブリル77Eタイプ。
1968年からのワンマン化に際しては801~70がその対象となり1800形1801~70に改められました。
その際、後部扉を閉鎖して中央に降車扉を新設しています。
最前部にいる運転手が戸の開閉を操作するのです。
扉が遠くに位置していたのでは見通しがききません。
ワンマン化された京都市電1800形は主力車輌として活躍し続けました。
1977年までに27両が廃車されましたが残る43両は1978年の京都市電全廃まで活躍しました。
うち6両(1844・66~70)は阪堺電気軌道に払い下げられモ251形(251~56)となっています。
彼女らも1995年までに全廃となりましたが 40数年の永きにわたって活躍しました。
伊予鉄道 軌道線 モハ50形
次に、伊予鉄道モハ50形をみてゆきましょう。
なんと彼らはまだ生き残っていて ばりばり現役で働いているのです。
伊予鉄道モハ50形の車体は、11,950 mm:2,430 mm:3,780 mmの3サイズ。
これまた計測ポイントの違いか、高さのみ広島電鉄800形の3,465 mmと差がありますが、
長さ幅とも同じで、台車間距離、オーバーハング、ドア幅までもが同じです。
軌間が1067mmmであることは大きな違いですが、少なくとも外観はともに張り上げ屋根の半鋼製車体でイメージ的にもよく似ています。
メカ的にも同じく直接制御の吊り掛け電車で台車もブリル77Eタイプとオーソドックスな構成です。
ワンマン化に際しては 京都市電800形と同じく後部扉を閉鎖し中央に降車扉を新設しました。
またこの時 京都市電2600形についていた間接非自動制御器(日車製NC-579)を取り付けています。
これはモハ50形の後期形にあわせ操作性の統一を図ったということでしょう。
勿論冷房化もなされました。冷房改造は後期形も含め1981年から着手され3年で完了しています。
広島電鉄 旧800形 801(もと803)
さて旧800形です。前後扉だったためワンマン化することが困難だったのはわかりますが、京都でも松山でもしっかり前中扉に改造されています。
しかし広電では改造されることなく1972年には805~10が 1976年には801、02、04と9両が廃車になりました。
1975年の千田車庫火災で車両不足になったため 803のみは前中扉に改造され801に改番、ワンマン化されたのですが、これも冷房化されることなく1983年に廃車されてしまいました。
前述のようにまだ生き残っている同型車がいるのになぜ広電の800形だけが不遇をかこつことになったのでしょうか。
旧800形と神戸市電
それには神戸市電の廃止が大きく関わっているようです。
神戸市電が全廃されたのは1971年。
1150形は7両(8両中)。1100形についてはその5両すべてが 500形更新車についても18両(21両中)が広島電鉄へ譲渡されました。
使えるものは ほぼ根こそぎ移籍させた感すらあります。
広電570形となる神戸市電500形は1955~56年にかけて更新改造がなされ書類上は新造扱いになっていますが、1924年製の神戸市電J車がベースとなる年代物の車両です。
広電1100形は神戸時代と同じ1100形を名乗ります。
1100形のうち01~03は1954年に神戸市交通局で、04.05は1960年に川崎車両で製造されました。
500形同様、ツリカケ駆動の直接制御車です。
広電1150形も神戸時代と同じく1150形を名乗ります。
51.52は1955年に53~57は1956年製造されました。52のみナニワ工機製で、他は川崎車両製です。
サイズは1100形を踏襲していますが、当初51.53~57は直角カルダン、52は平行カルダン駆動。制御器は間接制御式でした。
しかし取り扱いに難があり1100形に性能を合わせ ツリカケ駆動の直接制御に改められています。
台車も古いブリル77E、汽車L形に換装されました。
以上のように様々な過去を持つ神戸市電たちですが いずれも扱いに慣れたレガシーデバイスをもちます。
また車体は旧800形よりは新しく、大型で、ワンマン化しやすい前中扉でもあったのです。
結果として 大量導入に踏み切ったのは納得のゆくところです。
その多くは 外部塗装などもそのままで 神戸時代の面影を留めた形で永く広島で活躍していたのでご記憶の方は多いのではないでしょうか。
神戸市電のファンにとって 広島電鉄はサンクチュアリともいうべき存在だったように思います。
しかし広島電鉄はファンサービスのために彼女たちを導入したのではありません。
路面電車が街の厄介者扱いされていた当時、お金をかけずに輸送力の確保をすることが生き残るためには譲れない道だったのです。
のち神戸組は1981年に方向幕を大型化。
1983年には冷房改造されイメージが多少変わってしまい広告電車も多く登場するようになりました。
ファンには残念なことだったかもしれませんが、それもこれも、生き残るためです。
現在(2024年)、570形は582を残すのみ、1100形はすでになく、1150形も1156を残すのみとなりました。
しかし路面電車が復権するまでの繋ぎとして 彼らの功績は大きなものがあったと私は考えています。
旧800形は きっと悔しかったに違いありません。
しかし、このチャンスを広島電鉄がつかまざるを得なかった事情を知り黙って身を引いたのだと思います。
そうでなければ悲しすぎます。
参考文献 鉄道ピクトリアル 特集 路面電車 1976年/1994年/2000年/2011年版 No319/593/868/852
路面電車ガイドブック 1976.6 誠文堂新光社
*この記事は2015年6月に書いたものをもとに加筆訂正したものです。
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