105系のコンセプト
105系は地方の電化ローカル線に配置されていた40系や72系などいわゆる「旧形国電」の置き換えを進めるべく製造された車両です。
旧形国電の電動車は1両で走行するためのすべてを搭載しており、T車を加えて(MT比1対1)2両編成を自在に組むことも可能です。
これはローカル線の輸送需要にマッチするものでもありました。
対して既存の新性能車両はMMユニットがベースだったため最低でも2両、103系では4連が基本です。
これをそのまま輸送量の小さいローカル線に導入するのは不経済であり変電所容量などにも問題が生じる可能性がありました。
そこで旧形国電同様、電動車1両に走行機器を集約した「1M方式」の新性能車が開発されることになるのです。
もっとも1M方式の新性能電車がなかった訳ではありません。
クモユ141形郵便車や143系の事業用車、荷物車などです。
しかしこれらは既存の電車に併結するのが原則で性能もあわせてあります。
もっともこれらのうち一部はのち 旅客用に改造されローカル線でも活躍するのですが さすがにそれでは数を揃えられません。
105系が登場することとなります。
105系の設計にあたっては1M方式を採用しながら1M2Tでも旧形電車の1M1Tに相当する性能が発揮できるものとしました。
またシステムを簡素化し経済性を重視することも求められました。
その鍵となるのが新たに開発された主制御器CS51です。
103系ほどの高加速性能はいらないので制御段数は少なめです。
回路構成も永久直列で直並列組合わせ制御は行いません。
103系と共通のDT33系台車にはMT55系電動機が装備されました。
(出力110kw 歯車比1:6.07:103系と同じ)
しかし105系では電動機を台車単位で駆動可能とし非常時には2個モーターでの走行も可能としました。
変電所容量の小さい線区を走行する際は限流値を低く設定できる操作も可能です。
また単行時電動発電機 (MG)が 停止したら大変です。
抵抗器(MR147)は電動送風機を廃した自然冷却方式とし最寄り駅まで走行可能なように制御に必要な電源を常にバッテリーから供給できるようにしました。
容易には救援を要請できないローカル線の現状にあわせて 自力でやれることはやる という体勢を整えています。
とはいえ 発電ブレーキ付、応荷重装置・空転検知装置付…と新性能車として押さえるべきところはきちんと押さえてあります。
105系そしてCS51はJR化直前の国鉄技術者がローカル線の将来を見据え作り出した
よく練られた労作なのです。
105系新造車
105系は1980年から新製され、福塩線および宇部線・小野田線の旧形電車を置き換えました。
105系新造車 1980~81年製/先頭車改造は1984年
クモハ105-1~27/28~31:モハ105-1~4の先頭車改造
クハ104-1~25/26~29:サハ105-1~4の先頭車改造
中間車も存在したんですね。
国鉄時代の編成表を見ると彼らは府中電車区に配属され
クモハ-サハ モハ-クハ クモハ-クハ
5-1 1-5 1~4-1~4
6-2 2-6
7-3 3-7
8-4 4-8
随時、2連ないし4連を組んで運行していたようです。
宇部電車区では Mc-Tc(9~25)に加え増結用Mcが2両(26.27)在籍していました。
3連を組むことも可能です。
しかし当時の国鉄財政ではローカル線区向け車両を思うようには新造できず、追加分は改造車でもってこれを補うこととしました。
白羽の矢が当たったのは、103系1000番台です。
1000番台は営団地下鉄千代田線に乗り入れするため制御器には超多段制御を誇るバーニア制御のCS30を導入した出色の103系でした。
しかしながら 名車「営団6000系」の向こうを張るには103系では如何せん役不足。
203系の投入で千代田線直通(常磐緩行線)から捻出されたものを改造しました。
105系改造車
1984年。これらの103系を活用して奈良・和歌山線用に48両、可部線、宇部線小野田線用に13両の計61両が改造されることになりました。
改造種車が103系であることから片側4扉の車体となったことが大きな特徴です。
台車や主電動機も元々同タイプですから流用されています。
ただし制御機器は新造車と同様CS51を新調しました。
クモハ105-501~532:モハ102.103-1000番台改、
クハ104-501~510:モハ102-1000番台改
クハ105-1~14:クハ103-1000番台改。 以上56両
103系1000番台にはクモハはありません。すべて運転台を取りつけました。
クハは運転台をそのまま利用できるので具合がいいのですが、1000番台は長大編成ですから、どうしても数が少なくなってしまいます。不足するクハには電装解除したモハに運転台をとりつけています。
一部 0番台からも補充されました。
クハ105-101~104:クハ103-0番台改。
クハ104-601:サハ103-0番台改。 以上5両
JR西日本に継承された105系
JR化1年後となる1988年の編成表を見ると奈良電車区に配属されたのは24編成48両ですべて103系1000番台の改造車です。
クモハ105-501~510+クハ104-501~510 (NT201~210)
クモハ105-511~524+クハ105-1~14 (NT211~214)
広島運転所に配属されたのは11編成22両です。
クモハ105-17~19.21.22+クハ104-17~19.21.22 (K1~5)
クモハ105-31+クハ104-26 (K6)
クモハ105-525~527+クハ105-101~103 (K7~9)
クモハ105-529+クハ104-601(K10)
クモハ105-530+クハ104-23 (K11)
新造車+改造車が在籍。数の割にはバラエティに富んでいます。
改造車についても すべて103系1000番台の改造車ではまかなえなかったようで、
クハ105-100番台(クハ103形0番台改)やクハ104形600番台(サハ103形改)
といった103系改造車(4編成8両+1両)が 新造車(6編成12両+1両)に追加されています。
下関運転所(宇部線小野田線+山陽本線用)にも
クモハ105-531.532+クハ104-24.25 (U11~12)
クモハ105-528+クハ105-104(U10)
といった103系改造車(4両)が 新造車(9編成18両+Mc5両+Tc2両)に追加されています。
105系(新造車)の車体構造は103系と同じですが 3ドア車です。
103系は4ドア車ですから 同系列で2通りのドア構成となります。
結果、広島、山口地区ではこれらが混在することになってしまいました。
前述のK11編成やU11~12編成は同一編成に3ドア車と4ドア車が混在していたわけで、これが同じ系列だって言うんだからスゴイ。
でもそんなこと構ってられなかったのですね。
JR東日本の105系
そして1987年。仙石線にも105系が導入されることになりました。
参考文献によると、仙石線石巻地区の増発用とあります。
今回も103系の改造車です。ここで注目すべきは
種車となった103系0番台が 陸前原ノ町電車区に配属された4両編成だったいうことです。
(クモハ103-149_モハ102-315_サハ103-240_クハ103-599 :1976年製)
これは陸前原ノ町電車区に配属された16編成のうち2編成しかない冷房(改造)車でもありました。
虎の子の冷房改造車をつぎ込んでも105系を導入したかったに違いありません。
それにしても なぜ103系1000番台から改造できなかったのでしょうか?
1000番台は32編成もある大所帯で松戸区にはまだ100両以上も残っていました。
クハはいざ知らず あと4両モハをひねり出すことがどうしてできなかったのでしょう。
JR東日本 105系 宮城野電車区 仙ミノ R5-101 R5-601編成
←石巻② 仙台①→
R5-101:クモハ105-101_クハ105-105 1987年改造 1998年に引退
(クモハ103-149_クハ103-559)
R5-601:クモハ105-601_クハ105-601 1987年改造 1998年に引退
(モハ102-315_サハ103-240)
参考:JR電車編成表93年冬版 98年夏版
新区分となる600番台は、中間車2両を先頭車改造する形で登場しました。
しかし、従来の103系そのもののマスクです。
どこかから切り取ってきたように思われましたが、参考文献によると郡山工場で103系と同様の運転台を組み立てたとあります。
それならば なぜ クハ104_500番台に取り付けられたような105系のマスクを作ることをしなかったのでしょう。
郡山工場で直流電車の工事をする機会はそうそうなかったと考えられます。
おそらく 同時に入場してきたクモハ103やクハ103の運転台を-そう実物を見本にする-のが確実な方法だったのではなかったかという気がします。
ちなみに仙石線用の105系4両が落成したのは国鉄最終日となる1987年3月31日です。
この日に落成したということは駆け込み改造以外の何ものでもないと感じられます。
当時、いちいち国鉄本社に照会するような余裕などありはしなかったのです。
もともとは宮城電鉄として開業した仙石線はその名の通り仙台と石巻を結ぶ路線ですが、
都市間連絡と言うよりは仙台市内へとむかう通勤需要がメインとなっています。
仙台から本塩竃までは複線ですがそこからは単線。
松島海岸までは観光需要もあるのですが、高城町から先は はっきりいってローカル線そのものです。
前述の「石巻地区」とはこの区間です。
実態に見合った輸送力の担い手として短編成で運行できる105系が適していた区間であるといえましょう。
105系は新生JR仙石線の期待を担って陸前原ノ町電車区に戻ってきたに違いありません。
しかし仙石線用の105系は1998年。
103系に先駆けて105系はわずか10年あまりで現役をしりぞくことになりました。
なぜでしょう?
短編成を効果的に運用するには2編成では少なすぎた。というのが私の答えです。
昼間、105系(ワンマンカー)が高城町ですべての快速列車に連絡しラッシュ時には高城町で快速列車に増結、そのまま仙台にむかう--ということができれば それが理想だと思われます。
でも、そのためには8編成は必要かな?
地上設備の拡充も必要です。駆け込みでできるプロジェクトではなかったのです。
1998年、JR東日本は103系の故障が多発したことから 在来車を置き換えることにしました。
浦和電車区から103系更新車2編成を転属。
105系もこの時 置き換えられて運用を離脱することになります。
まだまだ使えたのではなかったか。とも思うのですが、
JR東日本にあっては たった2台しかない制御装置CS51をもつ105系。
飛び地のような直流区間の仙石線でメンテし続けることは大変だったのでしょう。
2017年10月現在。
105系は新造車はもちろん 改造型でさえJR西日本ではバリバリの現役です。
使いようによっては 2015年6月の「仙石東北ライン」の開業までも活躍できたのではないか?とも思うのですが。
悲しいかな。彼らには「地の利、時の利」 があまりにもなかったようです。
*この記事は2017年10月に発表したものに加筆訂正したものです。
参考文献:鉄道ピクトリアル 「新車年鑑 1988年版」 1988年5月 No496 の記事
JR東日本 105系 仙石線用改造車.
JR西日本 105系 奈良電車区’88/’93 下関運転所’88
JR西日本 JR西日本105系 福塩線 可部線etc 和歌山線etc
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