「影が薄いのはなぜ?」JR東日本 201系900番台 珍車ギャラリー#020

「影が薄いのはなぜ?」JR東日本 201系900番台 珍車ギャラリー#020

1963年に登場した103系は1983年(筑肥線用1500番台)まで、20年の長きにわたって量産された国鉄形通勤電車の顔ともいうべき存在です。
その後継車両である201系は1979年に試作され1985年に製造が打ち切られるまで1018両も量産されました。
ですがその割には使用線区が限られ、そして どういうわけか   とりわけ関西では影が薄いのです。

もっとも関東の方々にとっては201系は中央線の顔としてなじみの電車であるとも思われます。
いうまでもなく中央線は国鉄きっての混雑路線であり国鉄初の高性能通勤電車101系がまず中央線に投入されたのは 切迫した事情があったからに他なりません。
さて201系は中央線の救世主でもあった101系の後継車として開発されました。
どうやらこの辺が201系のキャラクターの鍵を握っているようです。

中央線は過密ダイヤに加え多くの種別の列車が走り、定時運転を支えるため電車は高加減速性能を求められます。
と同時に駅間が長いところでは高速運転さえもが求められる過激な路線なのです。
山手線や大阪環状線など駅間距離が短い路線を対象に造られた車両である103系では後継車両としてはあきらかに役不足。
折りしも省エネルギーが要求される中、電機子チョッパ制御の新系列高性能車両として201系は誕生することになるのです。

もっとも電機子チョッパ制御は、1970年に阪神7001形で、回生ブレーキ付きも1971年に営団地下鉄6000形で実用化された技術です。
最新の技術ではなかったのですが 前述したように高速運転する必要上 高速から電力回生ブレーキを有効にする技術を国鉄技術陣は開発しなければなりませんでした。
回生ブレーキをとことん活かしかつ低速時も微妙な調節がきく電空併用ブレーキは快適な乗り心地を実現しました。

JR東日本 クハ200-151
 
JR東日本 クハ200-151

しかし、そこまでのこだわりを要求する路線、現場はそれほどなく量産開始4年目の1985年には高価な耐高圧トランジスターを使うよりコストの面でも安価でより汎用な用途に対応できる205系にバトンタッチしてしまいます。
205系は軽量ステンレスの見た目にも新しさが感じられる車両です。
しかし6枚扉のサハを除いては900番台。つまり試作車が存在しません。
205系は従来の抵抗制御を発展させたもので、高性能ではあっても試用してデータをとるほどのテクノロジーではなかったということです。

ステンレス車の205系に比べて素人目には201系は103系とさして違わない地味な存在ですが実際はそうではありません。
そんな201系試作車を今回はご紹介します。
5両編成のユニットをそれぞれ東急車輌と日本車輌で製作しています。
クモハ200は900番台しか存在しない珍車です。
量産車のJRマークの位置に戸袋窓があるので区別できます。
なおクモハ200は晩年、中間に組み込まれ先頭に出ることはありませんでした。
思えばいい時期に撮影できたものです。

クモハ200形900番台 クモハ200-902 撮影場所:西船橋

中間車でもその戸袋窓が、量産車では少し小さくなっていますので並べてみればよくわかります。(写真下 左右)

JR東日本 モハ201-904JR東日本 モハ201-290
モハ201-904                モハ201-290

量産化改造工事は1983年に大井工場で実施されています。
外見上は大きな変化はありませんが、その際モハ201/200の-901が電装解除されサハ201-901.902となっています。

JR東日本 サハ201-901201系では珍しい形式間改造車サハ201-901

写真は、すべて西船橋駅

201系の数少ない改番を含む改造例です。
車歴の新しい205系が仙石線や鶴見線などへ転用され、数多くのバリエーションが存在するのとは対照的に、
改番などを含む大きな改造を伴う改造車が少ないことも201系の特色です。
つまり、特殊なデバイスを持つがゆえに205系のような生き延び方のできない宿命を背負わされた系列でもあるのです。

2005年10月。201系は この900番台試作車から廃車が始まりました。
そして201系の故郷であり主たる活躍の場であった中央線からも撤退することとなりました。
中央線系統の201系710両は新形式のE233 系688両で置き換えられました。
E231系ではなく新形式を投入することになったのはバリアフリーや、ユニバーサルデザインの導入もさることながら、
相も変わらずの超混雑路線である中央線の混雑緩和のために一層の加減速性能の向上を求めた車両が必要だったからです。

201系としてもE233系なら安心して道を譲れるということでしょう。

関西地区では「影の薄い201系」とご紹介しましたが、201系がエースだった時代もありました。
東海道山陽緩行線用として1982年から投入され1985年10月のダイヤ改正ではデータイムの各停全てが201系となりました。
これはまさに201系の性能がものをいったダイヤです。
しかし、それからわずか5ヶ月後の1986年3月改正で増備されたのは201系ではなく205系だったのです。
しかも1993年にはJR西日本が開発した207系が加わり、ますます201系の存在感が薄くなってしまいました。

そして2005年。321系の投入により東海道山陽本線の201系は淘汰され大阪環状線と関西線に転配されました。
各停については103系の天下だった両線ですが、103系リニューアル車に交じって201系の活躍範囲が広がり逆に存在感が増してきた感じさえあります。
阪和線については、前述の205系をもってしてもまだ103系を淘汰するには至りませんでした。
阪和線こそ201系がふさわしい。と思っていた私は 中央線の201系がまわって来ないかな。などど考えていたくらいです。
しかし、中央線でひたすら酷使されてきた201系が 阪和線で高速で運転する姿は見られませんでした。

2024年7月現在、吹田総合車両所奈良支所には6連×4本が在籍し大和路線で最後の活躍をしています。
あの201系の「ヂィ------」というチョッパ制御の動作音を今のうちに耳に焼き付けておきたいところです。

この記事は2005年6月にUPしたものをもとに2024/08/28に補筆訂正したものです。

参考文献;鉄道ファン200.5.2月号「特集:201系四半世紀の歩み」
鉄道友の会東京支部JR電車部会

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