「もと北急8001」大阪市営地下鉄 30系 3034 珍車ギャラリー#404

「もと北急8001」大阪市営地下鉄 30系 3034 珍車ギャラリー#404

もう一つの北急8000系

北急の8000系といえばポールスター。今も現役でがんばっていますね。
ところで北急には、もう一つ8000系が存在していたのです。北急が開業した頃の話です。
かくいう私もそんなものがいたとは知りませんでした。
大阪市営地下鉄の30系の写真を整理したとき初めて知りました。

これが今回の珍車、大阪市営地下鉄の30系 3034です。

30系アルミカー 34F① 3000形 3034 中央線用
北急8001→御堂筋線3026→中央線3034  撮影場所:九条

実はこの3034。もと北大阪急行電鉄 8000形 8001号機です。
大阪市が譲受し8連のまま御堂筋線に配置され、3026号機となりました。
この写真は中央線へ転属し、3034に改番されたのちのものです。
その車番からもおわかりのように、大阪市営地下鉄30系アルミ車と同型です。
大阪市の30系は68~70年に量産され万博会場へのアクセス路線となる1号線(御堂筋線)に投入されました。

北大阪急行電鉄

御堂筋線を延伸し大阪万博の会場へアクセスする路線が計画されました。
会場へのアクセス路線としては阪急千里線もあったのですが、はっきり言って荷が重すぎます
しかし、大阪市は市域外に御堂筋線を延伸することには消極的でした。
そこで日本万国博覧会協会と大阪府は、阪急に新会社を設立するプランを呈示しました。
そうして阪急が大株主となる北大阪急行電鉄が、1967年に阪急の子会社として設立されるのです。
北急は万博開幕直前の1970年2月、南北線と会場線を開業しました。

万博開催中、新幹線に直結する北急ルートは多くの観客の足となりました。
北急は万博開催時の輸送力確保するため、2000形44両の他に7000形ステンレスカー40両、8000形アルミカーを16両を用意しました。
北急がなければ、大阪万博はあれほどの成功を収めることはできなかったでしょう。

北大阪急行電鉄 2000系02F① 2000形M1c 2002 撮影場所:桃山台車庫

北急2000形は万博終了後も自社で保有する車両でしたが、7000形、8000形は会場線の廃止に伴い大阪市への譲渡が前提となっていました。
ですから、これらは30系とほぼ同型車です。
特に7000形は譲渡後の編成を強く意識したものとなっています。
すなわち、なんだかんだ言っても大阪市は、万博終了後の御堂筋線について、しっかりそのビジョンを構築していたのですね。

大阪市営地下鉄 30系

ここで大阪市営地下鉄の30系についておさらいしておきましょう。
30系は2号線(谷町線)と4号線(中央線)に投入された7000・8000形(18m級4扉ステンレス車)がベースとなる抵抗制御車です。
ここがちょっとややこしいところですが、同じ時期(1967年)に大阪市は北急と同じ車番の7000・8000形を製造しているのです。
これらは50系の思想を引き継いだ2連ユニットで9本製造されました。
もちろん30系タイプの18m級4ドア ステンレスカーです。組み合わせて長編成とするため貫通扉が広いマスクとなっています。

30系ステンレスカー 65F⑥ 3500形 3565 四つ橋線用
谷町線7004→御堂筋線3597→四つ橋線3565  撮影場所:緑木検車区

2号線(谷町線)と4号線(中央線)に新製配置されましたが、2年後(1969年)30系中間車を挟んで8連化、30系に編入されました。
これらステンレスカーは50番台となります。万博終了後、ここに北急7000系が組み込まれます。
大阪市交通局では初めて採用されたアルミ車 10~27F も加わりました。
このうち26,27Fが北急8000系です。

徹底した軽量化によりT車を導入 これを加え固定編成化した30系は、車体無塗装によるメンテナンスフリーなども含め、その優れた経済性を遺憾なく発揮しました。
後の大阪市営地下鉄の車両に大きな影響を与えたのはいうまでもありません。

アクロバット

30系で忘れてならないのは18m級車体でありながら4ドア仕様としたことと電気指令式ブレーキの採用です。
70年代の御堂筋線の混雑ぶりといえば決して半端なものではありませんでした。
当時受験生だった私は、大阪市内の予備校に御堂筋線を利用して通っていました。
朝の梅田駅といえば、大混雑。そうですね階段の上まで行列が続いていました。
それでも、行列はとどまることなく流れていたように記憶しています。
次から次へとやって来る 30系8連が大量の乗客を吸い込んでいったからです。
8連×4×2=64枚のドアがここで威力を発揮していました。

いつも運転席の後ろにへばりついていた私は、地下の暗闇に繰り広げられる光景を鮮明に覚えています。
駅を発車した30系はフルノッチで加速してゆきます。
ほぼ最高速度を維持したまま運転手さんはブレーキハンドルを一段ひきます。
ピューーンという かすかな音とともに電気ブレーキが作動すると、ただちにカチカチ…と全ブレーキ。
瞬時に反応する30系は、みるみる減速してゆきます。
そして…(ブレーキを全)緩め!…。速度0。停止位置、ドンピシャ。定時!!。

当時、自動ブレーキの旧型電車が大都市でも大手を振って走っていた時代です。
このブレーキ感覚はもう異次元。アクロバットとしか思えませんでした。

運転手さんの職人技とその信頼に応え続けた30系の偉大さを感じます。
スゴイのは、それが日常だということです。
そしてその日常の積み重ねが、大阪の屋台骨を支え続けたのです。
大げさなことを言っているつもりはありません。
大阪の地下鉄にあって各ターミナルを繋ぐこの御堂筋線こそが背骨ともいえる存在です。
この御堂筋線が目詰まりを起こしてばかりでは話にならないのです。
加えて、70~80年代の大阪市交通局は新線建設の返済に追われ、窮地に立たされていました。
唯一のドル箱路線である御堂筋線が、市民の信頼を失うわけにはゆかないのです。

さて、かくのごとくスゴイ実績を持つ彼女たちなのですが、残念ながら鉄道ファンにはあまり評価されていません。
同世代の地下鉄車両にあのスタイリッシュかつ先進的な営団6000系がいることも少なからず影響しているでしょうか。
特に70年代、御堂筋線では、来る電車、来る電車、どれも同じペタンコマスクの30系。
やれ金太郎飴だの、弁当箱だの…ひどいことを言われてきたのが30系です。
しかし当時、これほどの高性能車を一同に揃えてきた大阪市交通局の姿勢は高く評価されるべきだと思います。

中央線で余生を送る3034。
ホームに降り立ち、歩いていると30系とホームの隙間から抵抗器の廃熱が立ち昇ってきました。
この熱気、御堂筋線では結構問題になっていたのですが、私には30系の熱き思いに感じられました。
「私たちは大阪万博の成功を影から支え、その後も御堂筋線の仲間たちと大阪の繁栄を築いてきた自信と誇りがあるの」
彼女はそう伝えたかったような気がします。

参考文献;鉄道ピクトリアル 特集 大阪市交通局 No585 1993.12 No744 2004.3

-鉄道車両写真集
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大阪市営地下鉄(大阪市交通局)御堂筋線用 30系 8両編成 編成表
←千里中央⑧       なかもず①→
3001-3101-3201-3301+3601-3701-3401-3501
(Mc-M’-M-M’+T-T-M-Mc’) 編成毎に下二桁が揃えられている。
01~27F :アルミ車(8連;6M2T) +部には簡易運転台
他に94~97.99F:ステンレス車(4連;3M1T)
参考:私鉄車両編成表78 年版

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