阪急京都線の歴史とデイ100形
阪急のルーツといえば明治40年に創立した「箕面有馬電気軌道」ですが、
大正12年に創立した新京阪鉄道を母体とする京都線は、その2年前、大正10年に十三-豊津間を開業させた北大阪電鉄がそのルーツとなります。
ちなみにその路線の大半を占める南方-吹田間の一部は、国鉄の旧東海道線の旧線跡だったのですから、箕面有馬電気軌道よりも古い歴史を持っていたことになります。
前述の新京阪鉄道は、昭和5年に、京阪電気鉄道と合併し、わずか8年で、歴史上から、姿を消すのですが、京都線と言えば、まず「新京阪」という会社名が、頭に浮かんでくるのは、大正14年~昭和3年の4年間に天神橋-西院間の路線を造り上げたことと、昭和2年にデビューさせた、我が国初の本格的長距離高速電車=デイ100形(部内名称;P-6)の存在がなんと言っても大きいといえるでしょう。
特急つばめを追い抜いたデイ100形のインパクトは大きく、またその頑丈な車体ゆえ昭和47年まで活躍を続けました。
私の年齢がばれてしまいますが、その勇姿は、今でも私の目に焼き付いています。
新京阪鉄道 もう一つの忘れ形見4300形 電気機関車
さて、そんなデイ100形の陰に隠れて目立たなかったのですが、新京阪鉄道の忘れ形見が、昭和61年まで現役で活躍していたのです。
阪急電鉄唯一の電気機関車、4300形です。
新京阪鉄道が、彼らBL1形 1~3を登場させたのは、大正13年から15年にかけてです。
千里山の土砂を、大阪市内へと運ぶのがその目的だとする説が有力ですが、白昼、本線で長い貨物列車を牽くことはなかったようです。
写真をご覧ください。車体中央に大きな扉があり、そこから荷物を積み込める電動貨車のようにも見えます。
しかし内部には中央通路があり、主抵抗器や断流器などの電気器機並んでいて、そのさまは電気機関車そのものです。
でも一方、足もとに目をやると電気機関車とは思えないきゃしゃな台車がご覧頂けると思います。
これは、ブリル社製の台車で、アーチバータイプと呼ばれる珍しいものです。
古い貨車には、このタイプの台車を履いたものがいくつか見られますが、電気機関車でこのタイプの台車を用いている例を私は知りません。
電気機関車といえば、出力、パワーこそが重視されますが、ブレーキも重要な要素です。
しかし、この4300形は、この台車からして、片押し式のブレーキしか持ち合わせていません。
実際、ブレーキ力が弱く、運転する際には速度と荷重が制限されていたそうです。
なにゆえこのような電気機関車を、それも3台。新京阪鉄道が、必要としたのかということを考えると、やはり新線建設のために、小単位の土砂を頻繁に運び込むことが重要視されたからではないでしょうか。
つまり、その登場の時機からしても、新京阪線の建設に活躍したのではないかと思われるのです。
昭和3年には1500V に昇圧。翌年にはデキ2000形となりました。
以後は工事用車両として目立たないところで活躍してきたようです。
昭和32年には、2000系のデビューに伴い、3000形と形式をあらためました。
そして昭和39年には、3000系のデビューに伴い、4300形とまた名をあらためました。
末弟の3号機は、昭和32年。一足早く廃止され、宝塚にある電車館にカットボディーながら保存されました。
しかし、名前はというと、電気機関車らしくということでしょうか?ED2003とあらためられました。
こと名前に関しては、本当にないがしろされてきたのが、彼らです。
1.2号機は昭和50年に、廃止されました。
しかし、4301号機だけは正雀にある工場内の移動機として昭和61年に解体されるまで、ご奉公を続けました。
阪急電鉄の車両は、本当に手入れが良く、現在、京都線最古参の3300系でさえ、少しも古さや痛みを感じることはありません。
4301号機も工場内のアイドルとして大切に手入れされてきたようです。
4301号機に描かれた阪急のHマークにも、私は、工場の方々の車両に対する愛着をふと感じてしまうのです。
コメントを書く
コメントを投稿するにはログインしてください。