京阪電気鉄道 80形(珍車ギャラリー#234)

京阪電気鉄道 80形(珍車ギャラリー#234)

九条山で彼女たちが訴えたかったこと。京阪電気鉄道 80形-

小柄で古風なポール電車は京女のイメージ?

80形は1961~70年に京津線の各駅停車用として、81 – 96の16両が近畿車輛で製造されました。
15m級の両運転台車で3ドア車であり、他の京津線車輌とは趣を異にしています。
さて1960年当時、京津線はトロリーポールを使用しており、80形はポールを振り上げて単行で走っておりました。
京津線には併用軌道区間があり、同区間における各駅停車運用を前提に設計された80形は低床構造で、扉と連動する乗降ステップが付いています。
かように古風な出で立ちである80形は小型低床車体の路面電車タイプであり、いわば小柄で控えめな京女のイメージです。
しかし、京女=時代遅れ=か弱い というイメージは間違った先入観でしかありません。
誇り高き京都の女性は、とにかく辛抱強いのです。
惚れた「男はん」にはとことん尽くす。
ですから京都の男たちはおしなべて奥さんに頭が上がらない。
ちなみに私には半分、「京都人の血」が流れていますから、間違いありません。
そこで、彼女たちの活躍場所である京津線です。
これがまた、ハンパな路線ではないのです。

京津線という山岳路線

京津線には二つの大きな峠があるのですが、蹴上-九条山間には66.7‰という国鉄きっての難所=碓氷峠に匹敵する急坂まで存在しました。
京都市内とは思えない山岳路線です。
80形の駆動形式はと申しますと、これまた古風なツリカケ駆動ではありますが、45kwモーター(TDK-543/1-B)を各車に4台ずつ搭載とこのクラスの車両としては極めてパワフルです。
ほぼ同時期の車両で重量もほぼ同じである京福電鉄のモボ301形の倍以上のパワーです。
また、ギア比も4.21と吊り掛け駆動車としては高く設定し、勾配区間で、かつ急行列車から逃げ切らなくてはならない条件を高加速性能でクリアしました。
制御器はACRF-M445-256A(東洋電機製)。
力行から回生制動までノッチ指令によって定速度制御をおこなう京阪本線用2000系「スーパーカー」と同様のシステムです。
80形にはこれをダウンサイジングしたものが搭載されました。

京津線には、当時260形、300形といった兄貴たちも存在しました。
彼らは主に京津線の急行、準急用に使用されました。
「急行用…。」と聞くと「彼らの方が高性能?。」という気になりますが、彼らは、京阪本線の旧型車200形300形の足回りを流用したもので、台車などはBrillのMCB-2Xや27E-1はたまたボールドウィンという骨董的価値のあるものです。
こう言っては何ですが、260形や300形は急行、準急用にしか使えない代物です。
先進のシステムで足回りを固めたオール新造の80形には到底かなわないのです。
これが彼女たちを支えるプライドです。

軽快なそのスタイル

これだけ中身の濃い足回りを持ちながら、そのスタイルはというと軽快そのものです。
よーく見ていただければ、製造元である近畿車輌の影響が強く感じられるフォルムです。
しかし、本家の近鉄車両よりずっと魅力的です。
パノラミックウィンドウを配した端正なマスク。
そして小柄ながらも、バランスのとれた見事なプロポーション。
大阪弁で言うところの「こつまなんきん」と申しましょうか。
サイドビューの美しさも特筆すべきものです。
大きな戸袋窓のサイズに合わせた3連窓。そこに配された保護棒はスピード感を演出しているかに見えるほどです。

時代の流れに合わせて

そんな高性能に似合わないポール集電で登場したユニークな80形でしたが、時代の流れに合わせて変化してゆきます。
大津線(京津線+石山坂本線)が、ポールからパンタグラフへ切り替えられた1970年。
80形もパンタグラフを搭載することになりました。
(1970年製の94 – 96は当初から通常パンタで登場)
この時、自慢のマスクがいじられてしまいました。
パノラミックウィンドウに挟まれた正面窓はかつて落とし窓になっていて、ここからポールの操作ができるようになっていました。
この大きな窓が、嵌め殺しのHゴム窓になりサイズも小さくなってしまったのです。
そうしなければここから雨水が入り車体の腐食がいっそう進むわけですから、当然の施策なのですが、デザイン的には残念です。

1971年には、両運転台車でもあった81~93を2両固定編成とする改造工事がなされました。
これは京阪本線との接続を考慮したものですが、一方で自動車が増え列車本数を減らさざるを得なかった事情に応じたものでもあります。
折しもちょうど京都市電が全廃(1978年)へむけ大きくその数を減らしている時期でもありました。

1989年には冷房化改造工事が開始されました。
同年、京阪本線は100%の冷房化をすでに達成しており、むしろ遅すぎるくらいです。
しかし80形には軽量小型のインバータクーラーの登場を待つしかありませんでした。
それでも冷房化にあたっては、80形は天井が低く、そのままでは冷風ダクトを設置することができず、屋根を嵩上げしダクトを通しました。
そしてその上にクーラーユニットとインバータ機器が乗せられたわけです。
そのため軽快なスタイルは、またもや一変してしまいます。

当初残念に思ったものですが、見慣れてくると貫禄さえ感じさせたのも土台となるデザインが優れていたからだと思います。

うちらはどこへも行かしまへん。

しかしその時はもう彼女たちの運命は定められていました。
京津線の京都市営地下鉄東西線への乗り入れはすでに確定しており、
彼女たちの活躍場所である御陵-三条間は地下化され廃線となることが決定していたのです。
かくして1997年。二条-醍醐間の開通に合わせ、京津線は昇圧。
御陵~三条間の廃線と同時に旧性能車の80形は260形、350形とともに廃車となり、
これらの車両の多くは、その後、その廃線区間内に集められることになりました。
特に九条山駅の周辺に集められていたものは、国道1号線からもよく見えていました。

さて80形は、冷房改造して8年ほどです。
高性能でもあり、他社からの引きあいもあるということで,その後が注目されていました。
しかし、80形ほどの高性能が要求されるところはそうそうありません。
むしろそれほどの力をあの小さい車体に詰め込んだがために保守の面でも扱いにくいものとなっていました。

かつて80形の映像をYOUTUBE で見つけました。
三条を出発するやいなや、救急車に 進路を譲り大きく時間をロスした80形は、その遅れを取り戻すべく、
懸命に疾走するというシチュエイションです。
運転手さんのカチィガチッ というマスコンさばきに瞬時に即応し加速するそのツリカケサウンドに重苦しさはありません。
自慢のエアサスペンションは車体をリニアにグイーッと押し出します。
まさに胸のすくような加速です。
そしてブレーキの見事なこと。
京津線のあの短いホームにこんなスピードで突っ込んで大丈夫か?
と思いきやピタリと停止位置に。
運転手さんの名人芸もさることながら、
人馬一体ともいうべきその姿は80形がいかに優れた電車であったかを実感させるものでした。

終点の四宮に到着した彼女は間髪を入れずに折り返し線に引き揚げてゆくのですが、
「こんなにハードに使われて大丈夫か?」
と思わず気の毒な気がしたくらいです。
メンテナンスも大変だったに違いありません。
しかし、手がかかる分、きっとかわいい娘たちであったことでしょう。

結局、彼女たちは、その場で解体されました。

でも…。いみじくも彼女たちでなければこなせなかった思い出深いその現場で、
彼女たちが守り抜いたその鉄路とともに最期を迎えたことは、本望だったのではないでしょうか。

「京都を離れるなんていやや。うちらはどこへもいかしまへん。」

と彼女たちは訴えていたような気が私にはするのです。

初出:2012年12月15日

参考文献 鉄道ピクトリアル 特集 京阪電気鉄道 No553 1991.12
「京津線の「看板」電車80形の生涯」山本清治氏 鉄道ピクトリアル 特集 京阪電気鉄道 No822 2009.8
鉄道ピクトリアル 新車年鑑 1990年版 No534

 

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